柳生宗矩
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柳生宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、剣術家。徳川将軍家の剣術師範。大和国柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家師範としての江戸柳生の地位を確立した剣豪政治家。
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 元亀2年(1571年) | |||
死没 | 正保3年3月26日(1646年5月11日) | |||
別名 | 新左衛門。又右衛門(通称) | |||
戒名 | 芳徳院殿故但州剌吏荘雲宗巌居士。 西江院殿前但州太守大通宗活大居士 |
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官位 | 従五位下、従四位下、但馬守 | |||
藩 | 大和国柳生藩主 | |||
氏族 | 柳生氏 | |||
父母 | 父:柳生宗厳、母:興原助豊の娘 | |||
兄弟 | 柳生厳勝、柳生宗章、柳生宗矩 | |||
妻 | 正室:松下之綱の娘 側室:おふじ、おゆり |
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子 | 4男7女(柳生三厳、柳生友矩、 柳生宗冬、列堂義仙 |
大和国柳生の領主で、永禄8年(1565年)に上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家・柳生宗厳(石舟斎)の五男。母は興原助豊の娘である。兄に柳生厳勝、柳生宗章らがいる。少年時代に太閤検地の際の隠田の露見によって父が失領していたが、文禄3年(1594年)に父とともに徳川家康に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに功をたて、父の旧領の大和国柳生荘に2000石を与えられる。
慶長6年(1601年)にのちの2代将軍徳川秀忠の剣術師範役となり、ついで3代将軍徳川家光にも剣術師範として仕えた。慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍秀忠のもとで従軍、秀忠の馬前を守って賞賛され、翌元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件の交渉と処理に活躍する。余談であるが、坂崎直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府はその後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に友人を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、柳生家の家紋(地楡:吾亦紅=われもこう)に坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて(譲り受け?)使い続けている。
次第に将軍の信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)に従五位下に叙位、但馬守に任官する。寛永9年(1632年)には初代の幕府総目付(大目付)となり、諸大名の監視を任とした。寛永13年(1636年)の加増で計1万石を受けて大名に列し、大和国柳生藩を立藩。晩年さらに加増を受けて、位階は従四位下に昇叙、所領は1万2500石に達した。
正保3年(1646年)に没し、自身が父の菩提を弔うために友人の沢庵宗彭を招いて柳生に開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺に葬られた。享年76。なお、そのほかに、練馬区桜台の圓満山廣徳寺にも墓所があり、京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。墓所:東京都練馬区桜台六丁目20番18号の広徳寺。
子には隻眼の剣士として有名な長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4子が知られる。
[編集] 著作
- 兵法家伝書
- 玉成集
[編集] メディアでの扱い
宗矩については勝海舟が絶賛していることで有名である。山岡荘八には彼を主人公とした作品があり、大河ドラマ『春の坂道』の原作である。この作品での彼は情誼に篤い剣聖であり、家光のよき師である。 しかし、近年特に見られる傾向だが、(徳川秀忠に仕えていたためもあってか)多数の作品で悪役として描かれることが多い。(小説五味康祐、隆慶一郎、荒山徹の諸作、「影武者徳川家康」や漫画「あずみ」、大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」など) そのため、これらの作品を通じて柳生宗矩を知ると、その印象に混乱をきたすかも知れない。ただどのような描かれ方でも、厳格で知勇兼備であるという点ではぶれがなく、傑物としての宗矩像は共通している。
[編集] 外部リンク
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