源義親
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源義親(みなもと の よしちか、生年不詳 - 天仁元年1月19日?(1108年3月3日?))は、平安時代の武将。
河内源氏三代目棟梁源義家の次男で、源為義の父。兄の源義宗が早世したため、義家の嫡男となった。
義家譲りのつわもので、後の源義平の悪源太の、強いという意味での「悪」と同じく、悪対馬守義親と呼ばれた。
対馬守となり九州に赴くが、公物を横領するなど朝廷に対する反抗的姿勢が目立ち、1101年に朝廷で追討が議される。父の義家の重臣が義親追討に向うが、現地に着くや義親に同意しその指揮下に入ってしまう。そのことからすると義親は後世乱暴者として討伐されたとされるが、むしろ朝廷に反抗した源氏の平将門的人物といえるのではないか。1102年には官吏を殺害したため、隠岐国に配流される。
1107年、出雲国に渡って官吏を殺害し、官物を奪取するなど反抗的姿勢を続けたため、朝廷から派遣された追討使の平正盛に討たれたとの知らせが京にもたらされ、正盛は謀反者討伐の英雄として凱旋、朝廷より恩賞が授けられた。しかし、義親が討たれたということは当時から疑問視されており、その後、義親と名のる人物が何度となく現れたことが公家の日記にも記されている。このことも義親が単なる乱暴者ではなかったことの現れともいえよう。
平家物語冒頭の「傲れる者も久しからず」の例として挙げられている。
清和源氏研究の奥富敬之によれば、当時は既に白河法皇の院政期に入っており、院と対立する摂関家の武力として仕えていた清和源氏の中の河内源氏は、白河法皇の陰謀により勢力を削がれ、衰退してゆく(「白河院政の黒い手」)。
義親の父・源義家に対しては後三年の役を私闘と見なして恩賞を与えず、義家が所有していた荘園を没収したうえ、新たに義家への土地の寄進も禁じられた。
そのため義親が対馬守に任じられたのも、都に近い河内国を本拠地とし、東国を傘下にした河内源氏を、勝手の異なる西国の国司とすることで失敗を期待したものと思われる。特に義親を朝廷に誣告した大宰大弐・大江匡房が白河院の近臣であったことなどからも、院の謀略が伺える。
[編集] 子供
- 長男 源義信 對馬太郎。従四位下左兵衛佐。
- 次男 源義俊 對馬次郎。右馬允。
- 三男 源義泰 對馬三郎。民部丞、伊予介。
- 四男 源義行 對馬四郎。兵庫允、伊予介。
- 五男 源為義 六条判官。左衛門大尉、検非違使。
- 六男 源宗清 従五位下伊勢守、兵庫允。
源氏を継いだ、源為義と他の兄弟とは不仲であったようで、他の兄弟は保元の乱、平治の乱をはじめ、その後の、源氏の挙兵にも一切参加せずに、都にあって官僚の道を歩んだ。地方の長官になっても源為義与党としての行動をとらなかった。また、源為義が低い地位で地方の長官にもなれなかった時期にも、他の兄弟は高位につき、長男、源義信は従四位下まで登っている。