滋野清武
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
滋野清武(しげの きよたけ、1882年10月6日-1924年10月13日)は明治から大正期の飛行家である。男爵。通称をバロン滋野。
[編集] 経歴
1882年10月6日、陸軍中将滋野清彦男爵の3男として名古屋に生まれた。1896年に父を亡くし13歳で襲爵。学習院中等科では、1級上の志賀直哉や有島生馬、松方義輔から集団暴行を受けたことがある。志賀は「人を殴つた話」と題する1956年の随筆の中で、清武を「兎に角、妙に人に好かれぬ男だつた」と評している(岩波書店『志賀直哉全集』第9巻、1999年、pp.351-354)。
父の軍功に応えるべく学習院を中退し、広島の陸軍幼年学校に入学。しかし生来芸術家肌であり、陸軍の気質が合わなかったため、陸軍幼年学校をも中退して帰京。館山の別荘で遊興したのち、上野音楽学校に入学してコロネットを習得した。音楽学校で子爵清岡公張の三女和香子と知り合い、のち結婚する。
1910年12月、妻和香子を亡くした後に渡仏。本来の目的は音楽を勉強することだったが、パリの音楽学校に在学中、ライト兄弟たちの活躍による飛行機熱に呑み込まれ、ヴォワザン飛行学校、次いでジュヴィジーの飛行学校、ドュマゼル・コードロン飛行学校に転校して操縦術等を学び、1912年1月、フランスで日本人初の万国飛行免状(アエロ・クラブ)を取得する。
1912年、自らが設計した飛行機「和香鳥号」と共に帰国。臨時軍用気球研究会の御用掛として、日本陸軍の操縦将校の教官となるが、徳川好敏大尉との軋轢もあり、1914年、再び渡仏してパリ郊外のファルマン飛行学校に入学。
第一次世界大戦がはじまるとフランス陸軍航空隊]]に志願。外人部隊第1連隊に入隊後、ポーの飛行学校に編入される。のち追撃隊に所属。エースを集めたコウノトリ飛行大隊の一員となり、操縦士として活躍。6機程度を撃墜し、この時の戦功が認められてフランス陸軍の飛行大尉に昇進。レジオン・ドヌール勲章とクロワ・ビーゲール勲章を受ける。
この後、戦争未亡人のフランス女性ジャーヌ(ジャンヌ)と恋に落ち、1917年10月に結婚(ただし親族および宮内省から許可が下りなかったため入籍はできなかった)。1920年1月10日に夫人を伴って帰国。帰国後は空中輸送事業の必要性を説き、国内の航空の発展に尽力しようとしたが、成果をあげないうちに胃病と腹膜炎で死亡した。
ジャーヌ夫人が未入籍だったため、長男滋野清鴻の親権者が法的に不在となり、夫人と滋野家親族が争っている間に、1928年4月6日、華族令第12条第2項の規定により襲爵権が自然消滅し、滋野男爵家は断絶となった。
[編集] 参考文献
- 平木國夫 『バロン滋野の生涯―日仏のはざまを駆けた飛行家』 文藝春秋 (1990年) ISBN 4163440402