物自体
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物自体(ものじたい、[独]Ding an sich)は、ドイツの哲学者、カントがその哲学の中心概念としたもの。英語圏ではギリシア語に由来するnoumenon(nous「精神」の意)を用いる。大陸の観念論とイギリスの経験論の哲学を綜合したといわれるカントがその著書『純粋理性批判』の中で、経験そのものを批判した際、経験の背後にあり、経験を成立させるために必要な条件として要請したものが、物自体である。
「感覚によって経験されたもの以外は、何も知ることはできない」というヒュームの主張を受けて、カントは「経験を生み出す何か」「物自体」は前提されなければならないが、そうした「物自体」は経験することができない、と考えた。物自体は認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない。
カントに拠れば、物自体の世界が存在するといういかなる証拠もない。「物自体」のような知的な秩序があるかどうかわからないが、その後の経験によって正当化されるであろう。
超越論的自由とは「物自体」として要請されたものである。というのも、「行為」の結果は知ることができるが、その行為を起こした「自由意志」は現象界に属するものではない。しかし、因果律によって存在が証明できない、この「自由意志」が要請されることによって、その行為に対する道徳的責任を問うことができる。ゆえに「自由」の存在は正当化されるのである。
カント以後のドイツ哲学者では、ヘーゲルやフィヒテにみられるように「物自体」という概念を斥け自我や主観のみが実在するという独我論に近い立場をとる。ただ、ショーペンハウアーは「物自体」を「意志」と同一視し、その道徳観の基礎としている。意志の優越を説く教説がニーチェやベルグソン、ウィリアム・ジェームズ、デューイらに主張されていることを合わせ考えると、経験によって与えられず認識されもしない「物自体」の世界が自由意志の根拠として20世紀の哲学者に残されたともいえる。