王修
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王修(おうしゅう、168年?-?)は、後漢末期、三国時代の魏の武将。正史では王脩。字は叔治。子は王儀・王忠がいる。
北海郡営陵県の人。はじめ孔融に仕えた。このとき、孝廉に推挙されたが、都に上ることは無かった。その後袁紹、次いで袁譚に仕えた。このとき、袁尚と兄弟で争うことを諌めたが聞き入れられなかった。204年、袁譚が曹操によって殺されると、曹操に袁譚の遺体を弔いたいと嘆願し、許されて懇ろに埋葬した。
その後は曹操の家臣となり、魏郡の太守に任じられた。このとき、賞罰を厳格に定めた法を制定し、善政を行なったため、民衆から賞賛されている。曹操が魏王となったとき、さらに取り立てられた。