袁紹
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袁紹(えんしょう、生年不詳 - 202年)は中国の後漢末期の武将・政治家。三国志に登場する群雄の一人。字を本初(ほんしょ)と言う。大将軍の何進と協力して激しく宦官と対立し、董卓の乱の際には首都の洛陽より奔って河内にて兵を挙げた。後に河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れた後、病死した。
息子に、袁譚、袁尚、袁煕らがいる。孫は袁買。豫州汝南郡汝陽県の出身。
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[編集] 出自
後漢時代に四代に渡って三公を輩出した名門袁家の出身であり、その存在自体が周囲に影響力を持っていた。袁術は袁逢の子で、袁紹はその兄(袁成)の子とされるが、『魏書』(王沈撰)や『後漢書』(袁山松撰)によれば袁紹は袁術の異母兄弟であるという。王沈らの説に基づけば袁紹は袁逢の庶子で、伯父の袁成の養子となって後を継いだ。袁逢・袁隗の次の世代の袁氏宗族の長は袁紹と袁術の何れか(あるいは袁基)であると思われており、都に居た地方の豪族子弟はこぞって両家に赴いたが、袁紹が袁術よりも名望高く、例えば何伯求や許子遠の如きは袁術の門に赴かず、袁術はこれが面白くなかったようで、袁紹を嫌っていた。叔父に袁隗がおり、異母兄には袁基(袁術と同母兄弟)がいる。
[編集] 事績
[編集] 曹操と共に
曹操とはほぼ同世代の人物にあたり、若い頃には不良仲間だった。『世説新語』には、二人の逸話として面白い話が記されている。ある日、曹操の提案で2人は新婚の花嫁をさらおうと屋敷に忍び込んだ。ところが、袁紹は茨に嵌って身動きが取れなくなってしまう。そこで、曹操は「泥棒がここにいるぞ」と大声で叫んだ。驚いた袁紹は、必死になって立ち上がり、無事に逃げ延びたという。
霊帝時代の大将軍・何進との縁もあり、若い頃から侍御史になり、中軍校尉、やがて司隷校尉まで登る。霊帝の死後、何進にすみやかに宦官を排除するよう進言したが、受け入れなかった何進は逆に宦官によって殺されてしまう。袁紹はこれに怒って兵を動かし、宮中の宦官らを殺害、死者は誤って殺された者も含め、2000人に及んだ。
董卓は少帝を廃して陳留王(献帝)を立てようとした時、太傅の袁隗を叔父に持つ袁紹に相談を持ちかけた。袁紹は表向き賛成したが、そのまま冀州に逃亡した。董卓はこれに激怒したが、その後、名門である袁氏の勢力を恐れて、袁紹を勃海郡の太守に任命している。190年、董卓征討の兵を起こし、連合軍が結成されたときは、名門であるため盟主に推挙された。この時、盟主に袁紹を推挙したのは、曹操だったといわれている。
[編集] 覇権奪取に向けて
董卓征討軍が解散したのち、袁紹は華北への勢力拡張を始めた。191年に韓馥より冀州牧の地位を譲り受け牧となり、197年に大将軍に任じられた。199年には公孫瓉が篭る易京城を陥落させて幽州を手中に収め、更には青州や并州にも勢力を拡大し、河北四州を治める一大勢力を築きあげた。しかし、皇族であり人望のあった劉虞の擁立計画は頓挫し、さらに献帝を曹操に先に擁立されるなどの失敗もあった。
その後、献帝を擁立して野心を持った曹操と対立を深める。200年には、持久戦を主張する沮授や田豊の言を退け、官渡の戦いと呼ばれる一大決戦に臨んだ。兵力で勝る袁紹軍であったが、曹操に穀物の輸送車を強襲され、また高覧・張郃らの降伏もあって、冀州に撤退した。この後、冀州の各地で袁紹に対する反乱が勃発したが、袁紹はこれらを全て平定している。
しかし曹操との戦いで敗れた苦痛から病に倒れ、202年(建安7年)、袁紹は死去した。
[編集] 袁紹の死後
袁紹は、生前に明確な後継者を選んでいなかった。このことが彼の死後に災いして、長男の袁譚と末子の袁尚、そしてそれらを推す郭図や辛評、審配や逢紀と袁紹が築き上げた強大な勢力が二つに分裂してしまう。そして、これに付け込んだのが曹操であった。袁譚、そして袁尚も骨肉の争いを繰り広げる中で曹操に攻められて敗北し、殺されてしまい袁家は滅びた。
なお、袁紹の統治はなかなか優れたものだったようで、袁紹の死後に曹操配下の荀攸は「袁紹は寛大さと厚情によって人心を得ていた」と述べている。また烏丸の首領を厚遇し、その恩によって子の袁尚らは、蹋頓単于の力を借りることができた。
[編集] 袁紹の評価
『三国志』の編者である陳寿は「袁紹は威容は堂々としていて名は世に知れ渡り、河朔に割拠した。しかし外面は寛大に見えるが、内面は猜疑心が強く、はかりごとを好みながら決断力に欠けていた。良い人物がいてもこれを用いることが出来ず、良い言葉を聴いてもこれを実行に移すことが出来なかった。長子を廃して庶子を後継に立て、死後に国を失ったことも不幸な出来事とは言えない」と評している。なお、陳寿は袁紹と劉表を似た者と考えていたらしく、上の評をこの2人に対して送っている。曹操や孫権の後継ぎ争いでも、庶子を後継に立てることを諌めるための悪例として、袁紹と劉表はしばしば引き合いに出された。
他に、『三国志』の中には当時の袁紹に対する評も多数登場するが、評を述べた人物の大半は袁紹と敵対した曹操の臣であり、敗者である袁紹の評価は、実際以上に厳しいものになっている感もある。『三国志演義』においても、数々の失策を犯して曹操に敗れる愚将として描かれている。
[編集] 創作における袁紹
人形劇三国志では劉備を処刑しようとするなど度量の狭さが強調され、声からして情けない人物として描写されている。官渡での敗因となった兵糧の損失も、島田紳助、松本竜介が演じる雑兵に大慌てさせるという形で間抜け極まりなく描かれている。後継者となった三男袁尚も、両名の解説によって情けない人物との印象が強調されている。
横山光輝三国志では前半はまともな人物として描かれるも、河北を巡る戦いの辺りから策略をめぐらせる卑劣な人物として描写され始め、容貌も陰険、猜疑心が強そうな姿に描かれている。 しかし河北の統治の成功ぶりは曹操のセリフなどに表現されており、袁紹軍の兵士は三国鼎立以前に滅亡した群雄の中では唯一、独自のデザインの兜を着用する(他の軍閥はほとんどが後漢、蜀のものと同様のデザイン)など国力の豊かさを隠喩するものとなっている。
蒼天航路においては堂々たる貴公子として登場する黄巾の乱前後、王の威厳を備えた姿で描かれる河北攻防戦といずれも曹操に翻弄されるシーンがあるが、物語の中では群を抜いた存在である曹操にやや劣る程度であり、十分に力のある人物として描写されており、尊大で決断力に欠けるという従来のイメージを踏まえつつ、これまでの作品とは違った観点で捉えられていることが特徴的である。通説では袁紹に失望したとされている田豊や沮授も最終的に心服しているのを始めとして、官渡決戦敗北にいたるまで、袁紹はその威厳を失わないばかりか、ますます輝きをいや増しているという描写がなされている。また、これまでの作品では暗愚そのもののように扱われていた袁紹の三人の嗣子も、父親の高い評価に引き上げられるように、それぞれが個性ある能力を備えた才子として描かれている。なお、曹操の家臣団は袁紹との決戦においては情けなく描かれ、圧倒的な袁紹軍の猛攻になすすべもない軍師達の役立たずぶりは、才気溌剌とした他の章と比較すると、別人のようになっている。