畠山高政
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畠山 高政(はたけやま たかまさ、大永7年(1527年) - 天正4年10月15日(1576年11月5日))は畠山政国の嫡男で河内国の守護大名畠山氏当主。
武勇に優れ、1546年には三好政長と摂津の舎利寺で戦い、勝利した。1550年に父の死で家督を継ぐ。
その後は六角氏と手を結んだうえで三好氏と抗争を続けていたが、1558年11月30日、守護代の安見宗房の離反によって居城の河内高屋城を追放されて堺に逃れる。そこで、高政は三好長慶と和睦して1559年8月2日に三好氏の後押しを受けて、安見らを追放して高屋城に復帰した。
だが1560年には安見を守護代に戻して長慶と再び対立する。そのため、その年の11月13日に、三好軍が高屋城を占拠して高政・安見らは再び追放されてしまった。このため、1562年3月5日には久米田の戦いで、長慶の弟である三好義賢を討ち取るという大戦果を収めて、高屋城を奪還する。しかし、続く5月20日の教興寺の戦いで敗れ、河内国における支配権を失い、紀州に退去した。
1568年には上洛してきた織田信長に臣従して三好氏に奪われた旧領の一部を安堵され、畠山氏の存続を図ったが、主家を傀儡化しようと企んでいた重臣の遊佐信教によって紀伊に追放されてしまった。
1573年に弟の畠山昭高が信教に殺されると挙兵したが、信教に敗北。その後は流浪して1576年に失意の内に死去した。晩年はキリスト教に帰依したという。