三好義賢
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三好 義賢(みよし よしかた)は、戦国時代の武将。三好長慶の弟にあたる。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 大永7年(1527年) | |||
死没 | 永禄5年3月5日(1562年4月8日) | |||
別名 | 千満丸(幼名)。之康、之虎、元康(別名) | |||
諡号 | 物外軒実休 | |||
官位 | 豊前守 | |||
氏族 | 三好氏 | |||
父母 | 父:三好元長 | |||
兄弟 | 三好長慶、三好義賢、安宅冬康、十河一存 | |||
妻 | 正室:岡本牧西の娘・小少将 | |||
子 | 三好長治、十河存保 |
[編集] 生涯
大永7年(1527年)、三好元長の次男として生まれる(生年には大永6年(1526年)説もある)。
天文13年(1544年)、兄に従って京都に入る。兄・長慶は細川氏の当主・細川晴元に仕えたが、義賢はその分家で阿波国守護である細川持隆に仕えた。四国における影響力を保持する狙いがあったと見られる。
天文16年(1547年)、細川晴元らと対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らと摂津舎利寺で戦い、大勝した。その後は兄・長慶の勢力拡大に従って伊予や讃岐、和泉など各地に転戦している。また、弟の十河一存が和泉岸和田城主となったため、讃岐も事実上支配下に組み込むなど、三好家の四国方面の政治・軍事を担当した。そして天文22年(1553年)6月には弟・一存とともに持隆を見性寺に殺害し、その子・細川真之を傀儡の守護として擁立し、四国の実権を完全に掌握した。このとき、持隆派であった久米義張、佐野丹波らも殺害している。
永禄3年(1560年)、兄とともに畠山高政や安見直政らと戦い、これに大勝し、河内の支配を任された。
しかし2年後の永禄5年(1562年)、紀伊の根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、和泉久米田の戦いで戦死した。享年36。後を子の三好長治が継いだ。
[編集] 人物
- 義賢は根来衆の往来右京によって鉄砲で射殺されたが、これは名のある戦国武将たちの中では最初の例であると言われている。
- 義賢は豊かな教養人で茶の湯に対しても造詣が深く、武野紹鴎、千利休、今井宗休、津田宗達、北向道陳らと茶会を行っている。また、織田信長に劣らぬ茶器好きで、約50点も所持していたといわれている。明から輸入された唐物や「三日月」という茶壷に対して、3,000貫文もの金をつぎ込んだという。
- 義賢死後に成立した三好家の分国法・新加制式は義賢の重臣・篠原長房が義賢の治世を基礎にして制定したものといわれる。
[編集] 辞世の句
義賢が生前に用意していた辞世の句は、
「草枯らす 霜又今朝の 日に消えて 報のほどは 終にのがれず」
「草枯らす 霜又今朝の 日に消えて 因果はここに 廻りに来にけり」
であるとされる。このとき、副将として参陣していた弟の安宅冬康が、
「因果とは 遙車の輪の 外を廻るも 遠き三芳野の原」
と読み返し、兄を慰めたという。しかし弟の慰めもむなしく久米田の戦いで戦死した。主君であり、仇敵である細川晴元に対して三好兄弟を保護してくれた恩人でもある細川持隆を弑逆した事を気に病む内容の辞世であった。
なお、持隆を殺害に追い込んだ理由は、持隆が実力を持っていたため、または兄の長慶が晴元と対立し、晴元の復権を恐れた長慶が義賢に命じて殺害に追い込んだという説がある。ただし、義賢は持隆の死後、持隆の側室で美女として知られた小少将を正室に迎えるなどしていることから、本当に持隆の死を病んでいたのか疑問も残る。