相馬祥胤
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相馬祥胤(そうま よしたね、明和2年6月3日(1765年7月20日) - 文化13年6月20日(1813年7月14日))は江戸時代中期から後期の大名。相馬氏第二十五代当主。相馬中村藩9代藩主。8代藩主・相馬恕胤の三男。正室は桜井松平忠告の娘。子は、相馬樹胤(長男)、相馬定国(次男)、相馬仙胤(三男)、相馬益胤(四男)、相馬永胤(五男)、娘(相馬肥胤室)、娘(竹谷松平善長正室)、娘(伊東祐氏室)、娘(中西元道室)、娘(大久保忠列室)。官位は従五位下、因幡守。
明和2年(1765年)、誕生。ただし、年齢の上積みをはかり、幕府には宝暦11年(1761年)の誕生と届け出る。安永3年(1774年)8月9日、父恕胤の嫡子となる。長兄の相馬信胤が夭折、次兄の相馬斉胤は病で嫡子を辞退したためである。安永6年4月1日、将軍徳川家治に御目見した。安永7年12月16日、従五位下讃岐守に叙任した。後に因幡守に改める。天明3年(1783年)12月2日、父恕胤の隠居により、家督を相続した。
天明4年12月26日、天明の大飢饉に際し、藩内の領民救済のため、幕府に金子拝借を願い出て、五千両を貸し与えられる。ただし、飢饉への備えをしていなかったのは、失政であるとして出仕停止を命じられる。天明8年5月13日、五千両返済を延期を願い出て、出仕停止を命じられた。享和元年(1801年)に隠居し、家督は長男の樹胤が継いだ。文化13年(1816年)に死去。
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