石塔氏
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石塔氏(いしどううじ)は足利氏の支族で、室町幕府の奥州総大将を務めた。
足利泰氏の4男相義の子、頼茂は祖父泰氏の養子となり、「石塔四郎頼茂」を名乗る。頼茂の長子国明は仏門に入り国阿上人となり、頼茂の次子義房が家督を相続する。
義房は建武4年(1337年)に奥州総大将に任ぜられ、活躍する。貞和元年(1345年)奥州総大将を解任され、義房は上洛する。しかし、足利尊氏と対立し、鎌倉に下向して足利義詮に仕えた。義詮が上洛した後も鎌倉にとどまり、足利基氏に仕えている。観応の擾乱が発生すると義房と次子頼房は直義党として活躍する。擾乱終結後も頼房は南朝方として抵抗を続けたが、貞治3年(1364年)頃に義詮に降伏した。
頼房の子頼世は将軍義満の馬廻を務めた。その後、石塔氏は記録には表れなくなった。
また、文和3年(1354年)頃から義房の長子義憲は奥州総奉行職の後に設置された奥州管領を自称し、活動をはじめる。文和3年(1354年)には国府多賀城を占領する勢いを見せたが、すぐに吉良満家に奪還され、没落した。