稲垣定淳
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稲垣 定淳(いながき さだあつ、宝暦12年6月11日(1762年7月31日) - 天保3年11月8日(1832年11月29日))は、近江山上藩の第5代藩主。父は第4代藩主・稲垣定計(定淳は長男)。母は松平忠暁の娘。正室は小出英常の娘。官位は従五位下、若狭守。
宝暦12年(1762年)6月11日生まれ。幼名は藤五郎。天明元年(1781年)に叙任する。寛政4年(1792年)11月20日、父の隠居で後を継いだ。文政6年(1823年)9月5日、子の稲垣定成に家督を譲って隠居し、天保3年(1832年)11月8日に71歳で死去した。法号:桃石院如蘭鉄筆大居士。墓所:群馬県伊勢崎市の天増寺。
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