竹脇昌作
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竹脇昌作(たけわき しょうさく, 1910年9月5日 - 1959年11月9日 )はNHKの元アナウンサー。
[編集] 来歴・人物
新潟県出身。青山学院大学英文科卒業。子供のころから美声として評判で、1933年、NHKのアナウンサー第1期生の一人である。なお、同期には和田信賢がいる。後にフリーに転向。地方巡りを嫌ったからだという。
戦前戦後を通じてよく流されたパラマウントの映画ニュース解説で知られ、ナレーターの先駆者ともいえる人物だった。また、戦時中はプロパガンダ・レコードのナレーターも務めた[1]。ラジオ番組東京ダイヤルでは独特のサビ声と軽快な口調で人気を集め、「竹脇節」と呼ばれ、マダム・キラーボイスともてはやされた。
しかし、多忙の毎日と、生放送という重圧が彼の精神を蝕み、1959年3月の皇太子ご成婚放送を最後に東京ダイヤルを降板。不眠症治療が理由であるが、実際は重度のうつ病だと言われる。回復が伝えられていたが、同年11月9日に自宅で首を吊って自殺した。その日は長女の誕生日であり、首を吊ったロープは子供たちが遊んでいた縄跳びの縄であったという。「売れすぎた悲哀」「秒針に追い回されて」「電波に殺された」と言われた。
長男は元ラジオ関東(現ラジオ日本)アナウンサーの竹脇義果、三男は俳優の竹脇無我。
[編集] エピソード
仕事では完璧主義者である一方で、家庭では豪放磊落に振舞っていた。それは気の小ささを隠すためだったと言われている。仕事の関係で競馬中継の実況をする時に妻の反対を押し切って6人の子供を競馬場に連れて行ってもいた。一方で家族にも自分の内面は見せなかったという。