第343海軍航空隊
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第343海軍航空隊は、大日本帝国海軍の航空隊。1944年12月25日開隊。紫電・紫電改の戦闘機と偵察機の彩雲から編成された。司令は源田実大佐。
本土防空が任務であり、特攻攻撃には徴用されなかった。通称は、「剣」部隊。戦闘701飛行隊は維新隊・407飛行隊は天誅組・301飛行隊は新選組・彩雲の偵察飛行隊は奇兵隊・錬成部隊の401飛行隊は極天隊というように各隊にサブネームを付けていた。搭乗員はラバウル、フィリピン、硫黄島などからベテランの搭乗員をかき集めて部隊全体では3,000名を数えていた。編隊運用を用いて活躍し終戦まで約170機の敵機を撃墜(ただし米軍の記録とつき合わせてみると実際の戦果は40~60余機程度のようである)。1945年3月19日の松山上空での大空中戦は敵艦載機160機に対し50余機撃墜という大戦果をあげた。昭和20年8月9日、長崎県大村基地で登山訓練中、長崎市への原子爆弾投下を目の当たりにした源田司令をはじめ隊員たちは「3発目の原爆投下は必ず阻止する」として体当たり攻撃も辞さない決死隊を結成し、志賀淑雄飛行長等の指揮官クラスが錬成を開始するも結果的には前日8日に北九州上空で敵戦爆連合を迎撃したのが最後の戦いとなった。
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[編集] ベテラン搭乗員
集められた搭乗員の中に杉田庄一、武藤金義など撃墜王がおり、教官として坂井三郎が呼ばれていた。302航空隊に劣らない戦闘能力があった。元搭乗員の宮崎氏は配置されたときに「ラバウルにいた搭乗員たちがごろごろいるのに驚いた。」と言っている。
[編集] B-29搭乗員の証言
B-29の搭乗員であった爆撃手のウイルバー・モリス氏の証言によると「彼らの攻撃は猛烈だった。12機編隊のB-29の場合、1機あたり6門、あわせて72門の機銃が火を噴く。たちまち「弾の壁」ができるんだが彼らはそこの突き抜けて攻撃してくる。あまりに接近してくるので、搭乗員の顔が見えた。素直に言うが、あんな勇敢なパイロットはほかにはいない。」と語った。
[編集] 初代・第343海軍航空隊
なお、この第343海軍航空隊(「剣」部隊)は2代目である。初代の第343海軍航空隊(通称:「隼」部隊)は、零戦装備の航空隊として1944年初頭に内地で編成され、マリアナ諸島方面に進出・展開したが、同年6月~7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより玉砕、解隊した。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 碇 義朗『紫電改の六機-若き撃墜王と列機の生涯』
- (光人社、1987年) ISBN 4769803516
- (光人社NF文庫、2004年) ISBN 4769822839
- ヘンリー境田・高木晃治『源田の剣 第三四三海軍航空隊-米軍が見た「紫電改」戦闘機隊』(ネコパブリッシング、2003年) ISBN 4777050076
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