筒井順賢
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筒井順賢(つついじゅんけん、生没年不詳)は、戦国時代の人物。大和の国人筒井氏当主。筒井順尊の子。筒井順興の兄。妻は越智家令娘。藤王。良舜坊。
筒井氏ら大和の国人は、室町時代には畠山氏の配下であったが、畠山家の内紛により指揮下の国人も二分され、混乱状態にあった。
1488年、足利義尚の命令で上京していた父の順尊が客死し家督を継ぐ。1499年、得度して順賢と名乗ったが、まもなく、細川京兆家の家人赤沢朝経と大和国人古市澄胤の攻撃を受け没落する。順賢はそれまで抗争していた越智氏と和解し、筒井氏・越智氏を中心に国人一揆(大和国人一揆)を結び朝経・澄胤に対抗した。その後も朝経の前にしばしば敗北を余儀なくされたが、1507年、細川政元が暗殺され、朝経も丹後で戦死すると、順賢らは巻き返しを図り、畠山尚順の後援の下、澄胤・赤沢長経(朝経の養子)らを打ち破り、澄胤を自害に追い込み、長経を捕縛・斬首し筒井氏を再興した。古市氏との抗争はその後も継続した。1521年には順賢に代わり弟の順興が当主として活動しており、その前後に家督交代があったと推定されている。順賢はその後もしばらく存命したとされるが、詳細は不明である