紫雲 (航空機)
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紫雲(しうん)は、第二次世界大戦中の日本海軍の水上偵察機。機体略番は「E15K」。
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[編集] 概要
昭和14年、海軍は敵戦闘機の制空権下でも強行偵察が可能な高速水上偵察機の試作を川西に指示した。海軍からの要求は、敵戦闘機よりも高速であること、急降下爆撃が可能であることであった。試作第一号機は昭和16年12月に初飛行したが、特に高速性を実現させるため二重反転プロペラの採用等、様々な新機軸を盛り込んだ野心的な機体であった。
しかし、各部に不具合が生じたため修正に手間取り、海軍に納入されたのは昭和17年10月になった。そして、軽巡大淀級に搭載する強行偵察機として、昭和18年8月二式高速度水上偵察機「紫雲」11型」として正式採用した。
増加試作機は実用試験のためパラオ基地に配備されたが、敵戦闘機の迎撃を避けきれず全機撃墜されるという惨状を呈してしまった(撃墜は無かったという異説もある)。また、運用上の問題点も多く指摘されたことから量産されることなく終わった。また、大淀級への搭載も実現しなかった。
総生産機数は15機
[編集] 開発経緯と運用
昭和14年、海軍は敵戦闘機の制空権下でも強行偵察が可能な高速水上偵察機の試作を川西に指示した。十四試高速偵察機と称された本機に対する海軍の一番の要求は、水上機でありながら戦闘機より早い機体ということだった。
これに対して川西は、高速性能を得るため当時利用可能な様々な新機軸を盛り込むことで、高速水上偵察機を実現しようとした。新機軸の主なものは、
- 当時最大出力をもつ実用発動機「火星」を装備し、その大馬力によるトルクの影響を吸収して性能を十二分に引き出すため日本最初の二重反転式プロペラを採用。
- 空気抵抗軽減のため、胴体下の主フロートの緊急時の落下装置の配備。
- 翼端の補助フロートは上半分がズック製の気嚢式とし、収納の時には空気を抜いて内側に密着させる半引き込式。
- 主翼は層流翼を使用
などである。また、機体は全金属製で、油圧式二重フラップ装備、翼は艦上での格納も考えて翼端部分が上方に折りたためるようになっていた。 翌年試作開始された強風においても「火星」や層流翼が採用され、また二重反転プロペラは試作時に、引込み式補助フロートは企画段階で検討されており、同時期に設計された紫雲の影響が見られる。
試作第一号機は昭和16年12月に初飛行したが、新機構を試みた機体だけにフラップの故障、翼端の補助浮舟の作動不良など事故が続発し、またその間、発動機の換装、尾部下面にフインの取り付けなど機体にも長期にわたって改修が行われた結果、17年10月にようやく海軍に納入された。海軍において飛行審査を行った結果は、最高速度は468km/hで敵戦闘機よりも遅く、各部に故障が多いなど問題の多い機体であることが判明した。しかし海軍は、航空巡洋艦ともいえる、軽巡大淀級に搭載する強行偵察機、二式高速度水上偵察機として採用を内定、先に領収した4機につづき増加試作機を発注、18年中に8機と19年に2機の合計15機が製作された。
昭和18年(1943年)8月に二式高速度水上偵察機「紫雲」11型」として制式採用され、実用試験のため6機がパラオに配備されたが、補助フロートが折れての横転や、二重反転プロペラの故障の多発、さらには、主フロートの飛行中の落下がうまくいかないなどで敵機より逃亡できず、全機喪失という結果になったとされている。一方、パラオに到着したのは3機のみであり未帰還機もなかったとする説もある。
実用試験での惨状から、本機は制式採用機にも関わらずこれ以降量産されることなく、また戦局が緊迫したため改良型の計画も行われなかった。軽巡大淀への搭載も、増加試作機どまりだったため実現しなかった。
[編集] 性能
- 全長:11.588m
- 全幅:14.00m
- 主翼面積:30.00㎡
- プロペラ:H/S定速2翅反転
- 全装備重量:4,100kg
- 最高速度:468km/h
- 乗員:2名
- 発動機: 三菱「火星」24型 出力1680馬力
- 航続距離:1,408km
- 実用上昇限度:9830m
- 武装:7.7mm機銃×1、60kg爆弾×2
[編集] その他
機名の「紫雲」には、文字通りの「紫色の雲」という意味の他に、あろうことか「仏教徒の臨終の際に仏が乗って迎えに来る(来迎)雲」という意味もある。このため、当時は「縁起でもない」との批判もあった。
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