結城朝勝
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結城 朝勝(ゆうき ともかつ、永禄12年(1569年) - 寛永5年(1628年))は安土桃山時代の武将。結城晴朝の養子。宇都宮広綱の次男。母は佐竹義昭の娘。
水谷勝俊の交渉によって結城氏の養子となる。これによって宇都宮氏と結城氏、そして佐竹氏は三者同盟を結んで北条氏政に対抗したのである。
1578年、北条軍が常陸に侵攻してきたとき、三者連合軍は力を合わせてこれを撃退した。このとき、朝勝は初陣したという。しかし1590年、結城秀康が結城氏の養嗣子として入嗣すると、朝勝は相続権が無くなって[1]、実家の宇都宮氏のもとへと戻った。その後は兄の宇都宮国綱に従って、文禄の役などに参陣したが、1597年に宇都宮氏が改易されると、佐竹義宣のもとへ寄食した。
1600年、関ヶ原の戦いが起こると上杉景勝に与して白河城に入る。また、景勝と義宣の間を取り持つ役目も果たした。戦後、佐竹氏が出羽久保田に減移封されるとそれに従い、宇都宮姓に復した。その後は神官となったという。
朝勝には子が無く、真壁重幹の次男を養子として迎えた。これが宇都宮光綱と名乗り、後世に宇都宮氏の家名を残すのである。
[編集] 補注
- ^ ただし、近年において1587年前後に発給された結城氏当主の文書に結城晴朝とは明らかに別人の花押が記されたものが存在する事が確認された他、同時期晴朝が御台所に依頼を受けた(従来は晴朝の正室と考えられていたが、晴朝正室の水谷正村の娘(山川氏の娘とする説もある)は既に病没していた事が明らかになった)旨の文書が発見された事から晴朝とは別の「結城氏当主」が存在した可能性が浮上してきた。この場合の「当主」とは結城朝勝であると考えられる。もしこれが事実とすれば、晴朝が結城秀康を養子とするために一旦家督を譲った朝勝を廃した事になる。(市村高男 「当主の居城と前当主(または継嗣)の居城」(千葉城郭研究会 編 『城郭と中世の東国』(2005年 高志書院 ISBN 4862150063)参照)