佐竹義宣 (右京大夫)
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佐竹 義宣(さたけ よしのぶ、元亀元年7月16日(1570年8月17日) - 寛永10年1月25日(1633年3月5日))は佐竹氏十九代当主。久保田藩(秋田藩)の初代藩主である。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。幼名は徳寿丸。通称は次郎。官位は従四位上、左近衛中将。右京大夫。
1590年頃の佐竹氏は、北から伊達政宗、南から北条氏直の圧迫を受けて滅亡の危機にあった。しかし同年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、義宣は秀吉のもとに参陣して、所領を安堵された。このとき、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれたという。
小田原征伐後、秀吉の力を背景にして常陸内で敵対していた江戸重通を追い、さらに南方三十三館の国人衆を謀殺して、常陸(結城氏領を除く)54万石を領有することに成功した。
石田三成と親交があり、1599年に起きた加藤清正など7将による三成襲撃事件では家康と連携して三成を救出している(この時、「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」という言葉を残したと言われる)。1600年に勃発した関ヶ原の戦いで、恩義と友情を重視した義宣は家臣の反対を押し切って西軍寄りの立場を表明した。しかし、父・義重が家康寄りの立場を明言して行動するなど、他の多くの大名と同様に一門の総意としての態度がハッキリしていなかった。東軍が岐阜城を落とすと徳川家康のもとに戦勝祝いの使者を派遣し、配下の東隊を派兵して中立を決め込む。戦後の1602年、その曖昧な態度を家康から咎められて、常陸54万石から出羽久保田18万石へ減封された。その後は渋江政光・梅津政景・須田盛秀といった旧家臣及び関東奥州の旧大名の遺臣達を積極的に登用して、家中の建て直しに尽くした。
家康の義宣評は「困った程の律儀者」であり、義理堅さは評価されていたらしい。また、徳川秀忠からも重んじられた。
大坂の陣では徳川方として参陣した。特に冬の陣では、豊臣軍の木村重成・後藤又兵衛相手に苦戦し、渋江政光を失っている。
正室は那須資胤の娘(死別)。継室は多賀谷重経の娘。一男あり。養子・佐竹義直(末弟、佐竹義重の五男)、養子・佐竹義隆(弟・岩城貞隆の長男)あり。
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