緑の革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
緑の革命(みどりのかくめい)とは、高収量品種の作物の導入や化学肥料の大量投入などにより穀物の生産性が向上し、大量増産を達成したこと。ロックフェラー財団が1944年メキシコにトウモロコシと小麦の研究所、フィリピンに稲の研究所を設立した。
[編集] 概要
導入された主な高収量品種として、フィリピン・マニラの国際稲研究所(IRRI)で開発されたIR-8やメキシコメキシコシティーの国際トウモロコシ・コムギ改良センター(CIMMYT)で開発されたメキシコ系半矮性品種群などが挙げられる。 これらの多収性品種は、いずれも半矮性と呼ばれる穂の長さは完全だが植物体全体の背が低い形質を導入したものである。 半矮性の導入によって作物が倒伏しにくくなり、施肥に応じた収量の増加と気候条件に左右されにくい安定生産が実現した。
CIMMYTで多収性品種の開発に努め緑の革命に大きく貢献したボーローグ博士は、歴史上のどの人物よりも多くの命を救った人物として認められ、1970年にノーベル平和賞を受賞している。
[編集] 緑の革命の功罪
緑の革命は確かに産業としての農業の大増産を達成したが、農業を化学肥料・化学農薬の工業製品の投入によって維持される性格に変貌させた。また東南アジアの稲作地帯では、多収量の短稈品種が導入されることでそれまで農村で様々な生活必需品の素材として重要であった稲藁が使用に適さなくなり、農民にプラスチックなどの石油化学製品の購入を強いることになり、また農地の改良によって水田が淡水魚などの繁殖地としての機能が劣化することで、おかず類の自給力をそぐことになったことが指摘されている。そのため結果として、生産者である農民の多くはかえって生活の貧困を強いられるようになったとも言われている。
緑の革命による生産は、高収穫の代わりに土壌から大量の栄養分が失われた。大量の地下水が使用されたため、表土塩害が発生した。 さらなる問題点は、大量供給に対応する需要を用意しなかったために、その農業生産物の市場価格が暴落し、資金繰りの悪化した農家は、農地を手放さざるを得ない結果を招いた。化学肥料や化学農薬の購入のために農地を担保に借金をする農家もいたのである。
また、それぞれの土地に古くから定着してきた栽培種が失われることにもなり、在来品種の保存も急務となった(遺伝資源の保全)。
一方、緑の革命の失敗を反省材料とし、自然農法の普及に努める人々が多く出ている。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 技術史 | メキシコ | 農業関連のスタブ項目