織田信守
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織田信守(おだ のぶもり、安永元年(1772年) - 天保11年5月10日(1840年6月9日))は江戸時代の大名。丹波国柏原藩主。織田信憑の長男。初名は長考。通称は瀬之助、大学。官位は従五位下山城守。
安永元年(1772年)誕生。享和元年(1801年)6月14日、父信憑の嫡子となる。当初、父信憑は義兄信応(織田信旧の三男)を養嗣子としていたものの、死亡してしまったのである。同年10月1日将軍徳川家斉に御目見する。文化12年(1815)12月28日従五位下山城守に叙任する。父信憑の官位昇進にともない、世子の地位にありながら叙任しており、特別な待遇であったといえる。
その後、信守は信応の遺児・信古の廃嫡をねらい「秘命騒動」をおこす。先々代藩主・信旧は後継者にめぐまれず、分家から信憑を養子に迎えものの、その後実子信応を授かった。成長した信応は先代信憑の養嗣子になったものの、藩主に就任する前に病没してしまった。つまり、信応の遺児・信古は柏原藩織田家の正当な後継者なのである。しかし、信守は信古を養嗣子に迎えず、自分の子どもを後継者にしようとたくらんだのである。信古は病気のため、嫡子にはできないとして、退隠をさせようとしたようである。文政4年3月以降、たびたび信古の出府を延期させており、この頃の出来事と考えられる。結果的には、文政6年(1823年)、家臣九里政敬らの強い反発を受け、信古を長女安子の婿養子に迎え、後継者とした。
文政10年(1827年)10月10日、家督を相続する。同12年(1829年)11月18日に隠居し、養子信古に家督を譲る。信守の暴政に耐えられなくなった家臣団が幕府に藩主の交代を訴え、隠居させられたとも言われる。隠居後、その側室保野による「保野騒動」がおきる。天保10年8月16日信守は家臣に側室保野の柏原に連れてくるように厳命し、一方で側室保野に柏原に来ないように連絡をするなどして、家中を混乱させる原因をつくったことから、遠慮を命じられた。天保11年(1840年)5月10日江戸において死去、享年69。広徳寺に葬られる。
正室はなし。子女は七男五女。他に養子一人、養女一人。長男信貞は丹波柏原藩主、次男長敦以下は津田姓を称し、柏原藩士となる。
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