織田信張
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織田 信張(おだ のぶはる 大永7年(1527年) - 文禄3年9月22日(1594年11月4日))は戦国時代の武将。通称は又六郎、太郎左衛門、左兵衛佐を称した。別名、寛廉・信純。於台城主の織田寛故の子。
織田三奉行のうちの一つ「藤左衛門家」の系統である。やがて織田三奉行の別系統である「弾正忠家」の織田信秀が権力を握り、「藤左衛門家」はその下についた。
弘治2年(1556年)7月、織田信長が盆踊りの祭を主催した際には、信張の家来衆が地蔵に扮した。近江浅井攻め・比叡山の焼き討ちなどに従軍。その後天正5年(1577年)紀州の雑賀攻めなど、主に紀伊方面を担当。佐野砦を任されていたが、その後岸和田城へ移り、信長直轄軍の一員として働いた。
本能寺の変の直後は紀伊国人たちが蜂起、蜂屋頼隆と鎮圧に努めた。その後尾張の居城である於台城に戻り、織田信雄に知行1100貫で仕えた。天正12年(1584年)には、信雄の家臣として、土佐国の香宗我部氏と連絡をとっている。
佐々成政が肥後の検地に失敗し切腹を命じられた際には、豊臣秀吉より八代城を与えるとの命があったが、信張はこれを固辞した。文禄3年(1594年)、近江の大津で没する。享年68。