織田信秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 永正7年(1510年)※異説あり | |||
死没 | 天文20年3月3日(1551年4月8日)※異説あり | |||
別名 | 三郎 | |||
戒名 | 萬松寺桃巌道見 | |||
墓所 | 亀岳山萬松寺 | |||
官位 | 弾正忠、備後守、三河守、従五位下 | |||
氏族 | 織田氏(自称平氏) | |||
父母 | 信定、含笑院殿(いぬゐ) | |||
兄弟 | 信秀、信康、信光、信実、信次、信正 松平信定室、長栄寺殿、岩村殿、秋悦院殿 |
|||
妻 | 土田御前、織田達勝娘、織田敏信娘 養徳院殿、他 |
|||
子 | 信長、信広、信時、信行、信包、秀孝 信治、信興、秀成、長益(有楽)、長利 お市の方、お犬の方、犬山殿、くらの方 小幡殿、乃夫殿、信徳院殿、栄輪院殿、他 |
織田 信秀(おだ のぶひで、永正7年(1510年) - 天文20年3月3日(1551年4月8日)、 生没年には異説もある)は戦国時代の尾張国の武将。
[編集] 経歴
尾張国南西部を支配する海東郡勝幡城(愛知県稲沢市)の城主織田信定の長男として生まれる。信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張守護代の清洲織田家に仕える庶流として、宗家の重臣たる清洲三奉行の一人であった。
信秀は父・信定(1538年没)の生前に家督を譲られ、勝幡城に近い商業都市津島を支配し、経済力を蓄えた。
天文元年(1532年)、那古野城(名古屋市中区、のちの名古屋城)を奪い、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した。那古野城の奪取にあたっては、信秀はあらかじめ城主で尾張守護の斯波義統の妹婿にあたる今川氏豊に友好的に接近、連歌などの友人となってこれを油断させた後、奇策をもって攻略したと伝えられており、信秀の武将としての性格を示す有名なエピソードになっている。
その後も勢力の拡大にともなって天文8年(1539年)に古渡城(名古屋市中区)、天文17年(1548年)に末森城(名古屋市千種区)を築いて居城を移している。他国にも侵攻して三河の松平清康とも拮抗し、さらには他国とも攻防を繰り返し、勢力を拡張した。
成り上がり者として内外に敵の多い中、国内を治め、京都に上洛した折は朝廷にも献金して従五位下に叙爵され、備後守の官を得た。さらには室町幕府にも参じて、13代将軍の足利義輝にも拝謁した。天文10年(1541年)9月に三河守に任ぜられる。
こうして信秀は、主家の尾張守護代清洲織田家への臣従関係は保ちながらも、主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、圧倒する地位を築いていった。信秀は晩年まで守護代家臣に甘んじ、尾張国全域を支配することはできなかったが、尾張国外の戦国大名である美濃の斉藤道三、駿河・遠江・三河の今川義元とも戦うなど戦国の一雄として活躍した。
美濃国で守護の土岐頼芸が追放されるとこれを保護し、美濃国主を奪取した斎藤氏に度々攻め込むなど、長年の宿敵として濃尾における覇を競った。美濃の斎藤家との戦いに大敗を喫していた中、天文18年(1549年)に信秀は、子の信長と斉藤道三の娘濃姫を政略結婚させて斎藤家と和した。今川氏との対立はやむことはなかった。
1551年に流行病により、急死。嫡男の織田信長が跡を継いだ。墓所は名古屋市中区の亀岳山萬松寺。
[編集] 関連項目
|
|
|