耶律堯骨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姓名 | 耶律堯骨 |
諱 | 徳光 |
廟号 | 太宗 |
字 | 徳謹 |
諡号 | 孝武恵文皇帝 |
年号 | |
生没年 | 902年-947年 |
在位 | 927年-947年 |
父 | 太祖(次男) |
母 | 蕭皇后(述律皇后) |
耶律堯骨(やりつ ぎょうこつ、902年 - 947年)は、キタイ帝国(遼)の第2代皇帝(在位927年 - 947年)。漢風の姓名は劉徳光(とくこう)。廟号は太宗、字は徳謹。
目次 |
[編集] 出生
太祖・耶律阿保機の次子として生まれる。生母はウイグル王国の王女の蕭皇后・月里朶(ユリド、述律皇后)。同母長兄は東丹国の懐王の耶律突欲(義宗・天譲帝)。
[編集] 即位
926年の父である耶律阿保機の死後、皇太子だった同母長兄の耶律突欲は生母に嫌われて、廃嫡され、東丹王国の王となっていたため、皇位は空白となった。この事態に皇后の蕭氏(述律皇后)が称制を執った。
927年、述律皇后から後継者として堯骨が指名され、キタイ(契丹)帝国の皇帝として即位した。そのため、耶律突欲は沙陀族の王朝後唐に降伏し、李嗣源(後唐の明宗)の下に去った。
[編集] 治世
933年、李嗣源が崩御すると、後継をめぐって争いが表面化した。耶律突欲は堯骨に後唐への介入を促した。その後継争いの渦中にあった沙陀族の石敬瑭は、燕雲十六州を割譲することと引き替えにキタイの堯骨と手を結び、その援護をうけて後唐の皇位を継いだ李従珂を滅ぼし、後晋を立てた(この一連の混乱の最中に耶律突欲は李従珂によって暗殺された)。堯骨は燕雲十六州を来るべき南進の基点として整備する。
建国の経緯からも沙陀族の後晋は、事実上キタイの傀儡政権であったが、942年、石敬瑭の死後は、キタイからの独立を図るようになる。これを懸念した堯骨は、南進を開始、946年に一気に後晋の首都・大梁(現在の開封)を陥落させて華北を占領し、後晋を滅亡させた。翌947年正月元日、堯骨は開封に入城し、国号を中華風に「大遼」と改称。年号を大同とした。ただし、これ以後も「キタイ」と「遼」の国号は併存する。堯骨はしばらく開封にとどまったが、遠征によって兵站に支障を生じ、わずか3ヶ月後に開封を発して北の幽州に帰還を図る。しかしその途中、欒城で病没した。齢46。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 靖安蕭皇后
[編集] 子
- 耶律述律(穆宗・劉璟)
その他、多数
[編集] 伝記史料
- 「遼史」巻3 太宗本紀第三、巻4 太宗本紀第四
|
|
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 中国史の人物 | 902年生 | 947年没