称制
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称制とは先帝崩御後、新帝(主に皇太子または皇后)が即位の式を挙げずに政務を執ること。日本では飛鳥時代に中大兄皇子と菟野皇后の二例が見られるが、どちらも日本書紀では一見してほとんど事実上の天皇と同然に記述されている。日本の場合摂政と似ているが、摂政の場合、天皇が同時に存在しているが、称制の場合は、天皇がいない(称制している本人が事実上の天皇か天皇に準ずる存在)のが大きな違いである。
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[編集] 中国の称制
称制はもともと中国の漢文の言葉である。先王が崩御して、新王が幼少である場合、太后(母后)が実権を握って政治を代行することをいう(垂簾の政)。古く春秋時代からみられる。日本と異なり、中国の場合は称制する者(母后)と別に正統が君主(幼君)が同時に存在しなければならない。
[編集] 日本・中大兄皇子の称制
斉明天皇は新羅出兵準備中に崩御したが、中大兄皇子は皇太子のまま即位せずに政務を執行した。斉明天皇の崩御後も即位を先延ばしにしたが、この間は日本書紀や万葉集によると「中皇命(なかつすめらみこと)」と呼ばれた人物がいたらしく、これは間人皇女(孝徳天皇の皇后)のこととする説が有力である。先帝の后や母后ではなく皇太子の方が実権を握っている点で、中国の称制とは異なるが、まず母后(斉明天皇)のちに先帝の后(孝徳天皇の皇后・間人皇女)を名目上の上位者として立てていたために形式上「称制」という名称が選ばれたのであろう。いずれにせよ、中大兄皇子は667年に近江大津宮に遷都し、668年旧正月1月3日にやっと正式に即位した(天智天皇)。(一説に、中大兄皇子が同母妹の間人皇女と不倫関係を持っていた為に乙巳の変から15年以上経過してもなお即位できなかったとの説や、反対に間人皇女(=中皇命)は中継ぎの大王として即位していたとの説もある。中大兄皇子が(結果的に)晩年にやっと即位した理由については他にも様々な説がある。)
[編集] 日本・菟野讃良皇后の称制
天智天皇崩御後に勃発した壬申の乱に勝利した夫・大海人皇子(天武天皇)崩御後、菟野皇后は息子・草壁皇子への皇位継承を望んでいたのだが、ライバルの大津皇子を自害に追いやった為に却って反発を買い、草壁の凡庸な器量も相まって、草壁を即位させる事が出来なかったため、母后である菟野が政務を執り草壁を支えた。結局皇太子のまま草壁は早世してしまい、彼女は草壁の遺児・軽皇子(後の文武天皇)が成人するまでの中継ぎとして、690年旧正月にようやく持統天皇として即位した。天智天皇の皇女・菟野皇后の称制は自らが産んだ草壁皇子の血統が続くのをより確実にしたいがためであった。彼女は草壁の早世にめげず、強いリーダーシップで律令国家体制確立への舵を執り、孫・軽皇子への譲位(直前に天武天皇第一皇子高市皇子が薨去したが、菟野・藤原不比等による暗殺説もある。)を果たした。天武と持統の間から生まれた草壁皇子の子孫は奈良時代の皇統となって平城京で政治・文化の担い手になったが、称徳天皇を最後に断絶してしまい、皇統は天智系(すなわち白壁王、のちの光仁天皇)に戻る事となった。
[編集] 日本・神功皇后の摂政
日本書紀によると、仲哀天皇の崩御後、世継ぎの応神天皇が生まれたばかりであり、その母の神功皇后が摂政となったという。ここであえて摂政という用語を使い「称制」とはいってない。むろん伝説時代のことであるので当時に摂政だの称制だのという漢文の用語が使われたわけもなく、古事記では摂政とも称制ともいってはいない。が、日本書紀が編纂にあたって天智称制・持統称制にあわせて用語を統一しなかったのはどういうわけであろうか。その理由は、「仲哀天皇がいまだ崩御していないという建前をとったためその代理だから」という意味か、または「特に理由はなく、称制も広義の摂政の中の一種という建前でただ慣習的に称制という言葉が使われなかっただけ」というわけなのか、あるいは「応神天皇は胎中天皇と称されたように胎児の頃からすでに正式な天皇であってその代理」という主旨なのか、いずれにしてもよくわからない。