職業野球東西対抗戦
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職業野球東西対抗戦(しょくぎょうやきゅうとうざいたいこうせん)は、1937年-1949年に日本野球連盟 (プロ野球)が主催したオールスターゲームの前身となる対抗試合である。
第1回大会は、1937年に阪神甲子園球場を会場に3試合行われた。大阪朝日新聞(朝日新聞大阪本社)の田村恭一が音楽や舞台と同じように、オールスターキャストによる野球の試合を開催したら面白いのではないかという発想から誕生した。当初3年間は朝日新聞主催で開催されたが、1940年以後は日本野球連盟の主催となる。1942年(この時はシーズン途中の8月から9月開催)と、1944年(6月開催)を除けば、原則として11月から12月にかけて開催された。1945年までは監督推薦のみだったが、1946年以後はファン投票が行われている。
[編集] エピソード
ペナントレースがおこなわれなかった1945年、戦争がおわったあと、最初に行われた試合が、10月のこの東西対抗戦であった。西宮球場に保管されていたボールなどを使用して、開催された。このとき、新加盟のセネタース球団に入団した、大下弘選手の活躍が、戦後のプロ野球の再開を決定づけた。