肥後国人一揆
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肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)とは、天正15年(1587年)に起こった肥後国人衆による一揆である。
[編集] 経緯
肥後の国は戦国時代、長らく国人衆が割拠する状態が続いた。1580年代に入ると次第に島津氏の支配下に納まるが1587年、豊臣秀吉の九州征伐によって九州は平定された。秀吉の裁定により肥後は島津氏から没収され、佐々成政の統治を受けることになった。国人衆の独立志向が強いことを察知した秀吉は成政に、統治にあたっては一揆が起こらないように配慮し、検地(太閤検地)は3年間行わないなど融和的な政策を採るよう指示していたが成政はこれを守らずただちに検地を行った。しかしこの根拠となっている秀吉文書は偽文書の可能性が高い。
1587年7月、肥後国人隈部親永(隈府城主)・親泰(山鹿城村城主)父子が検地に反抗して挙兵すると国人の多くがこれに呼応し、肥後全域を巻き込んだ大規模な反乱へと発展する。成政は隈部父子の居城を攻撃するが守りが堅く手こずり、逆に居城の隈本城が甲斐親英・菊池武国らの猛攻撃を受け落城寸前まで追い込まれるなど、大苦戦。秀吉の命で九州・四国の諸大名が総動員され、同年12月にようやく一揆は鎮圧された。
成政は翌1588年2月、大坂へ出向き秀吉に謝罪しようとするが尼崎に幽閉され、やがて一揆を引き起こす原因を作ったとして切腹を命じられた。閏5月14日、成政は摂津国尼崎法園寺にて最期を遂げた。
一揆の収束後、秀吉は一揆に参加した国人だけでなく中立的立場をとった国人をも処罰した。そのため、52人いた国人のうち48人が戦死しまたは処罰されたという。