甲斐親英
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甲斐親英(かいちかひで、天文9年(1540年)? - 天正15年(1587年))は、肥後国人で阿蘇氏の家臣。甲斐親直(宗運)の嫡男。出家し宗立と号す。官位は相模守。
[編集] 生涯
父・宗運が主家の外交方針に逆らって日向の伊東義祐に接近した息子(親英の弟)3人を殺害するとこれを排除しようとするが失敗し、殺されそうになる。家臣のとりなしで助命されたが、この一件が一因となって親英の妻は宗運殺害を決意したという。
父・宗運の死後、筆頭家老となる。阿蘇氏の本拠地・矢部に篭り守勢に徹するべしとの宗運の遺言を守らず、1585年に島津氏の花の山城を攻撃し反撃を招いてしまう。甲佐城、堅志田城を落とされ、居城の御船城を放棄。隈庄城を開城して降伏するが和平交渉中に捕らえられ八代へ連行される。2歳の当主・阿蘇惟光は島津氏に降伏したのちに母親に連れられ逃走し、阿蘇氏は滅亡した。
ほどなく九州は豊臣秀吉によって平定され、親英は旧領の御船を回復した。しかし肥後の領主として派遣された佐々成政の施策に肥後の国人衆は反発し、1587年、反乱を起こす(肥後国人一揆)。親英はこれに参加し菊池武国らと隈本城を攻撃、落城寸前まで攻め込むが撃退される。結局反乱は鎮圧され親英は戦死した。
[編集] 足手荒神
熊本県上益城郡嘉島町にある甲斐神社は、「足手荒神」と呼ばれている。その名の通り祈願すると手足の病が治るといわれているが、これは肥後国人一揆で手足に重傷を負った親英が地元の住民に手厚い看護を受け、「このお礼に死んだあとはこの地で、手足の病の守り神となろう」と言い残して死んだという逸話がもとになっているといわれる。父宗運もここに祭られている。