脇屋義助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
脇屋義助(わきや よしすけ、嘉元3年(1305年) - 康永元年/興国3年5月11日(1342年6月25日))は、南北朝時代の武将。新田朝氏の子で、新田義貞の弟。彼の苗字「脇屋」は群馬県太田市中央部に位置する「脇屋町(わきやちょう)」の町名の由来である。子に脇屋義治がいる。
元弘元年(1331年)、兄義貞とともに新田荘にて挙兵し、鎌倉を攻めている。その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した。左衛門佐、兵庫助、刑部卿、左馬権頭、弾正大弼を歴任。延元3年/建武5年(1338年)に兄義貞が不慮の戦死をすると越前の宮方の指揮を引き継ぐ。暦応2年/延元4年(1339年)、従四位下に叙せられる。康永元年/興国3年(1342年)、中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡るが、伊予の国府で突如発病し、そのまま病没する。
昭和8年(1933年)、兄義貞の館跡と考えられている群馬県太田市の安養寺から脇屋義助を追悼する板碑が発見された。種字には金泥が塗られていたが、北朝年号であったことから真贋論争が起きた。現在では本物と思われている。この板碑から義助の正確な生没年月日が判明した。
カテゴリ: 人物関連のスタブ項目 | 日本の歴史関連のスタブ項目 | 新田氏 | 南北朝時代の人物 (日本) | 鎌倉時代の武士 | 1305年生 | 1342年没