脚気
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脚気(かっけberiberi)はビタミンB1欠乏症の一つ。ビタミンB1の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心(しょうしん))を併発する事から、「脚気衝心」と呼ばれることもある。
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[編集] 概略
ヴェルニッケ脳症、高ピルビン酸血症と並ぶビタミンB1欠乏症の代表疾患である。
[編集] 疫学
江戸時代の江戸で将軍をはじめ、富商等裕福な階層から患者が多く(江戸時代末期には一般庶民からも大発生)、「江戸患い」と呼ばれた。大正時代以降、ビタミンB1を含まない精米された白米が普及し、副食を十分摂らなかったことで非常に多くの患者を出し、結核と並んで二大国民病とまで言われた。戦後国民の栄養状態の改善に伴い激減したが、近年はジャンクフードの普及によって増えている。アルコール依存症患者にも多く、アルコール分解の際にビタミンB1が消費される事と、偏食が関与している。最近は高齢化が進み、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題となっている。
経験的に修行僧などの精進料理(動物性タンパク質を含まない食事)を摂る人々が一旦脚気になるも、時間が経つにつれて自然回復することが知られている。これは体内の腸内細菌を動物性タンパク質として吸収することによりビタミンB1が摂取されるからと考えられている。
[編集] 歴史
ビタミンの存在すら発見されていなかった明治時代においては、西欧人にはみられない日本独特の風土病と認識されており、都市部の富裕層や陸軍の若い兵士に多発する原因不明の疾患として対策が急がれていた。
本症を栄養障害の一種と断定したのが高木兼寛、ビタミンB1の単離に成功したのが鈴木梅太郎である。脚気の原因を巡ってはドイツ系の学派が細菌による感染症説を主張、英国系及び漢方医学の学派が栄養障害説を主張していた。さらに、大日本帝国陸軍がドイツ系学派と、大日本帝国海軍が英国系学派と提携するという構図で対立していた。
高木は海軍において西洋式の食事を摂る士官に脚気が少なく、日本式の米を主食とし副食の貧しい下士卒(兵曹および兵。のちの下士官兵)に多いことから、栄養に問題があると考え、遠洋航海において西洋食を摂る下士卒の艦と日本食の艦とを分けて航海させる試験案を上策し、それが採用され、結果として西洋食の艦において脚気患者が出なかった。このことから栄養障害説を確信したとされる。
だが、海軍で脚気が撲滅された後も、陸軍では森林太郎(森鴎外)、石黒忠悳等が科学的根拠がないとして麦飯の食用に強硬に反対したため、脚気による犠牲者はなおも現れ続けた。ただ、これについては下士官兵たちが軍隊に入ったからには白米を食べたい、麦飯は囚人食か貧乏人の食事と反対し森らに加勢する向きがあったことも挙げなければならないだろう。
自身も脚気に苦しんでいた明治天皇が海軍や漢方医による食事療法を希望した際にドイツ系学派の侍医団から反対された事からやがて西洋医学そのものへの不信を抱いて一時期には侍医の診断を拒否するなどしたため、天皇の糖尿病が悪化した際に侍医団が有効な治療手段が取れなかったのではないかとも言われている。
日清戦争の際に陸軍で脚気患者は数万人発症し、病死者は数千人と伝えられている。戦死者は数百人で戦死者より脚気で病死した兵士のほうが多かった(なお史料により人数は異なる)。
日露戦争の際には陸軍の脚気患者は約25万人が発症し、病死者は約2万7800人とされる。なお日露戦争の戦死者は約4万7000人。ただし戦死者中にも脚気患者が多数いるものと推定される(日清戦争時と同様に史料により人数が異なる。なお、高木の提案を採用して兵員に麦飯を支給していた海軍では軽症患者が少数発生したのみで死者は無しと伝えられている)。
[編集] 病態
[編集] 分類
[編集] 乾性脚気
多発神経炎を主体とし、表在知覚神経障害からしびれ、腱反射低下などを来たす。
[編集] 湿性脚気
末梢血管抵抗の低下から高拍出性心不全を呈して浮腫になる。
[編集] 検査
膝蓋腱を叩いて膝関節が伸展する膝蓋腱反射は末梢神経障害の有無を見ている。
[編集] 歴史上の有名死亡者
[編集] 関連項目
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