菊地和雄
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菊地 和雄(きくち かずお、1925年 - 1983年)は東京都出身の空手家で、清心流の開祖。神道自然流空手八段。
[編集] 経歴
菊地和雄は、大正14年(1925年)、東京都に生まれた。幼少の頃より柔道、剣道を学ぶ。中学生の時、近所で沖縄の踊りをやっているという話を聞き、小西康裕(本名・良助)の良武館道場をのぞいたのが、空手との初めての出会いであった。
良武館は当時、剣道、柔道の道場として名高く、剣道部100名、柔道部50名と盛況な武道場であった。空手部は5名で、その中の一人が本部朝基の直弟子・袖山豊作(大日本武徳会・空手錬士)であった。
小西は、船越義珍、摩文仁賢和、本部朝基ら、空手の諸大家に師事した日本空手草創期を代表する空手家の一人であり、昭和8年(1933年)には、自らの流派「神道自然流」を創設した。
剣道、柔道、柔術を修め、日本武道界に既に剣道、柔術で中心的存在であった小西は、大日本武徳会の柔道の一部門であった空手を、独自の「空手道」部門として認可させるべく尽力し、日本空手道の礎を築くために努力した。また、小西は武徳会称号段位審査員として、現在の主要流派(伝統)の創始者への審査をして称号を授与していた。当時の各師範とわけ隔てなく交流を重ねよい面を取り入れ、更に日本武道(剣術・柔術)を加えたものが、神道自然流空手であるといえる。
前述のように神道自然流空手への入門時は、菊地和雄を入れても空手部はわずか5名であった。しかし、うち一人は袖山師範と指導者2名、生徒2名という中で集中的指導を受けた。だが、時期は太平洋戦争の最中であり、菊地和雄も学徒出陣で中国大陸へ渡った。
終戦後、菊地は帰国して良武館へ戻る。戦後、小西が議員としての選挙活動に中心を置いたため、菊地は良武館で宗家留守を守る師範代として、後輩の指導に専念した。
昭和32年(1957年)3月18日、菊地は「清心館菊地和雄道場」を開設し、ビルの屋上で2人よりスタートした。同年7月14日、自らの空手を「清心流」と命名、小西康裕より八段を授与され名実共に清心流が始動した。清心流は、菊地の学んだ空手、居合、柔術、杖術、手裏剣を統合した総合武道である。
昭和38年(1963年)、菊地は全日本空手道連盟創設に加わるも、大会ルール等により後に脱退独自路線を歩む。昭和42年(1967年)に新本部道場を設立して、昭和40年後半より50年代にかけて全国へ支部を展開した。清心流の門を叩いたものは2万人を超し、4000名の門下と全国200以上の支部を有する全日本清心会へと発展した。
菊地和雄は、昭和58年(1983年)1月、死去した。享年58才。清心流は現在、菊地高弟の疋田清拳が最高師範を務める会派連合組織清心流空手道協会と同最高顧問となっているNPO法人全日本清心会において清心流の伝承普及活動がなされている。