葛野王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
このページの項目名には、オペレーティングシステムなどの環境により表示が異なる文字があります。正確な表記では「葛」が表示と異なるかもしれません。
葛野王(かどののおおきみ、天智天皇8年(669年)頃?-慶雲2年(705年)12月)は大友皇子(弘文天皇)の第一皇子。母は十市皇女。孫には淡海三船がいる。
文に長けていたと伝えられているが、壬申の乱で敗れた大友皇子の皇子であるため、朝廷内でも当初は評判が悪かったようである。
『懐風藻』によると696年(持統10年)の高市皇子の死去の後、持統天皇が数ある天武天皇の皇子達を退け孫の軽皇子(後の文武天皇)を皇太子にしようとした際、それに組し、日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとだとして天皇位の直系相続を主張した。実際には古来から兄弟間での天皇位の相続は一般的であり、それについて弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝。弓削皇子も持統天皇の意向を結局は呑み、軽皇子は皇太子に任命された。
葛野王は後に正四位の位を授けられ、式部卿の地位に任ぜられた。弘文天皇、十市皇女の父母の影響から、決して幸せな人生を送ったとは言いがたいが、彼なりに必死にその時代を生き抜こうとしたことが窺える逸話である。
カテゴリ: 飛鳥・奈良時代の皇族 | 705年没