藤原朝光
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藤原 朝光 (ふじわら の あさてる または あさみつ、天暦5年(951年) - 長徳元年3月20日(995年4月22日))は平安時代の公卿。太政大臣藤原兼通の次男(三男、四男とも)。母は有明親王の女。兄に左大臣顕光、妹に円融天皇中宮媓子などがいる。子に朝経、花山天皇女御姚子などがいる。従二位、大納言、左大将。閑院左大将と号す。
若くしてその才覚を認められ、天延3年(975年)に25歳で権中納言、貞元2年(977年)には27歳で左大将と順調に昇進する。社交家で華美を好み、矢の筈を水晶で製することを考案し流行させたという。歌才にも定評があり、拾遺和歌集を初めとする勅撰和歌集に28首が入選、小大君や馬内侍といった同時代の女流歌人達と恋愛関係を持ったことでも知られる。家集としては『朝光集』を残している。
酒を通じては藤原道隆、済時と格別に親しく交わり、道隆執政下の宮廷に自由な気風をもたらした。永延元年(987年)に大納言昇任、なおも前途を期待されたが、長徳元年(995年)の疱瘡の大流行により、道隆、済時らと相前後して世を去った。
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