蘭学者
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蘭学者(らんがくしゃ)は、蘭学を修め研究した人。江戸時代に塾を開いて蘭学教育を行った人について言うことが多い。医学について蘭学を実践する医師を漢方医に対して蘭方医という。蘭方医が蘭学者であることも多いが、オランダ流医学を習っただけの蘭方医は蘭学者に含まれない。また長崎通詞は、蘭学に対し学問的に貢献した場合には蘭学者であると言える。
[編集] 歴史
江戸時代、鎖国令によって海外との交流は禁止され、オランダ一国だけが長崎出島で貿易を許されていた。しかし一般人とオランダ人の交流は禁止され、書物の輸入も制限されていた。
出島にはオランダの医者も来ていた。通詞らを通して、その医療技術が広がり、蘭方医が発生した。『蘭学事始』には蘭方医の流派として、西流・栗崎流・吉田流・楢林流・桂川流・カスパル流・吉雄流などが見える。ただしこれはオランダ人医者の医療行為を実際的にまねただけのものであり、学問的な基礎は乏しかった。主に膏薬などを使う外科医療を行った。
8代将軍徳川吉宗は、技術導入を目的に、オランダからの本の輸入を解禁した。また吉宗は、漢学者であった青木昆陽、野呂元丈らにオランダ語の学習を命じた。野呂元丈は、江戸参府中の長崎通詞の協力を得て、ヨンストンスの動物記から『阿蘭陀禽獣虫魚図和解』を、ドドネウスの本草書から『阿蘭陀本草和解』を抄訳した。青木昆陽はオランダ語の語学的な研究を行い、『和蘭話訳』『和蘭話訳後集』『和蘭文訳』『和蘭文字略孝』などを書いた。しかし野呂・青木のオランダ語研究は一般的な広がりを持つにはいたらなかった。
『解体新書』の翻訳、それに続く杉田玄白の天真楼での弟子の育成、さらに大槻玄沢の『蘭学階梯』の出版と芝蘭堂での弟子の育成によって、蘭学は一般的な広がりを持つようになった。のちに稲村三伯によるオランダ語の辞書『波留麻和解』(はるまわげ)が出版され、語学的な研究が進んだ。
一方、長崎通詞からも蘭学者が輩出した。中野柳圃(志筑忠雄)- 馬場轂里の系統から文法の研究が進んだ。