青木昆陽
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青木昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日))は、江戸時代中期の儒学者、蘭学者である。名は文蔵、敦書。
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[編集] 生涯
江戸日本橋小田原町(東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。浪人として京都の儒学者である伊藤東涯に私淑して儒学を学ぶ。江戸町奉行所大岡忠相組与力加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤推挙により忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。
江戸幕府8代将軍徳川吉宗は、すでに西日本では飢饉の際の救荒作物として知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島において薩摩芋の栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。
元文元年(1736年)には薩摩芋御用掛、元文4年(1739年)には御書物御用達となり、昆陽は薩摩芋栽培から離れて昆陽は幕臣になる。寺社奉行となっていた忠相の配下に加わり、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・三河など徳川家旧領の古文書を調査し、家蔵文書を収集して由緒書を研究。昆陽は収集した文書を分類して書写し、『諸州古文書』としてまとめられた。原本は所有者に返却され、家蔵文書の重要性を説き保存を諭している。紅葉山火番を経て評定所儒者となりオランダ語の習得に努め、弟子には『解体新書』で知られる前野良沢がいる。
明和4年(1767年)書物奉行を命ぜられが、明和6年(1769年)流行性感冒により死去、享年72。
昆陽の薩摩芋試作が関東における普及に直接繋がったかは、佐藤信淵の指摘(後述「昆陽と佐藤信淵」を参照)に見られるように疑問視する説もあるが、昆陽が同時代に薩摩芋によって名声を得ていたことは事実であり、後世“甘藷先生”と称され、墓所の瀧泉寺には「甘藷先生之墓」がある。また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとしても祀られている。
著書に『和蘭文訳』、『和蘭文字略考』、『経済纂要』、『昆陽漫録』、『草盧雑談』など。
[編集] 薩摩芋の関東への普及
一般的には、青木昆陽の薩摩芋試作の後、関東に薩摩芋栽培が広まったとされている。しかし、この点については、後述の佐藤信淵の指摘をはじめ、以下のような疑問がある。
- 加藤枝直の記録によれば、昆陽が幕張・不動堂に出張したのは年間勤務数117日のうち、わずか7日であり、実際は養生所の作場への出勤が主で、ほとんど現地に出向いていない。
- 昆陽はこれ以後、薩摩芋栽培普及の職務からは離れ、古文書収集・蘭語研究に携わっていること。
- 長崎の鉄工・平野良右衛門という昆陽とともに薩摩芋栽培に携わった人物がおり、実際の栽培は平野がおこなったと考えられる。
- 昆陽の試作以前に、関東郡代伊奈忠逵(1712年 - 1750年)のもとで、甘藷栽培が試みられていた。
- 享保期以前に下総銚子経由で薩摩芋の栽培法が、関東にもたらされていたという文献がある。(島原重夫『甘藷馬鈴薯年譜』)
いずれにしても、昆陽の試作が
- 幕府(町奉行)が行った本格的な試作であったこと。
- 「蕃薯考」が出版され、栽培の普及を意図したこと。
- この試作以降、薩摩芋を幕府が救荒作物として考えるようになったこと。
などから、この試作が、薩摩芋の関東への普及にとって画期的な事件であったと位置づけられている。
[編集] 昆陽と佐藤信淵
佐藤信淵はその著書『草木六部耕種法』の中で、昆陽の薩摩芋栽培法を「疎放なる作法」と批判し、昆陽の種芋を直接地面に植える方法に対して、高温多湿な苗代を作り早い時期に収穫する方法を紹介している。この方法は、最近まで関東各地で行われていた方法で、近世後期の関東地方の農書の多くがこの栽培方法を記している。
また、『甘藷説』の中では、薩摩芋の栽培法を伝えた人物として、幕張の隣村武石村(現千葉市花見川区)の薩摩浪人の話を伝えている。佐藤信淵の著書には独自の例話が多く、この話が事実なのかは不明だが、関東地方に薩摩芋栽培が普及する陰には、昆陽の試作以降、多くの試行錯誤が行われ、多くの名もなき甘藷先生がいたと考えられる。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『青木昆陽伝』平野元三郎 著(隣人社)
- 『千葉郡幕張町誌』(家鴨文庫蔵)