蜂須賀宗英
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蜂須賀 宗英(はちすか むねてる、貞享元年4月9日(1684年5月23日) - 寛保3年2月29日(1743年3月24日))は、阿波徳島藩の第7代藩主。初名は隆泰。通称は勘次郎、宮内、潜外。父は蜂須賀忠英の子蜂須賀隆喜。官位は、従四位下侍従、阿波守。
はじめは徳島藩の藩士に列し、中老や家老として藩政に参画していた。1735年6月10日、蜂須賀宗員の死去に際し、末期養子となり、徳島藩7代藩主となった。同年8月15日、将軍徳川吉宗に御目見した。同年12月11日、従四位下阿波守に叙任した。後に侍従に任官した。同日、徳川吉宗の偏諱を受けて蜂須賀宗英と改名した。1739年12月22日、隠居し、養子宗鎮に家督を譲る。隠居後は潜外と号した。1743年2月晦日、死去。享年51。
正室はいない。子女にニ女あり。その他に養子宗純(松平忠雅の三男)、養子宗鎮(松平頼煕の次男)、養女(実父蜂須賀吉武、蜂須賀宗鎮室)あり。
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