西屯区
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台湾省台中市西屯区 | |
地理 | |
位置 | 東経120°41' 北緯24°09' |
面積 | 39.8411km² |
人口 | |
戸口(2006年5月) | ○戸 |
人口(2006年5月) | 147,449人 |
政治 | |
行政区分 | 市轄区 |
区長 | 洪耕然 |
地方自治機関 | 台中市議会 |
下部行政区画 | 39里897鄰 |
その他 | |
郵便番号 | 405 |
市外局番 | 04 |
古称 | -- |
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西屯区(せいとんく、繁体字:西屯區、ピンイン:Xīchúnqù、シーチュンチュ)。台中市の市轄区の一つ。
目次 |
[編集] 地理
[編集] 歴史
西屯区は元来平埔族拍宰海族(Pazehe)の居住地であった。伝承によれば1701年、王成楚なる人物が170人を率いて犁頭店(現在の南屯区)よりこの地に移住し水田を開墾したのが始まりと言われている。1716年には岸裡社の総土官であった阿莫が当時の諸羅県知県周鐘瑄に対し開墾の要望として「東至大山,西至沙轆地界大山,北至大溪,東南至阿里史,西南至梀加頭地」との文書を提出しており、文中の大姑婆が現在の西屯区上下石牌付近とされる。道光年間には集落が発展し街が形成され西大墩街と称されていた。また筏子渓河岸の馬龍潭(馬璘潭、馬鳴潭とも言う)は康熙末年には入植が進み余文儀が編纂した『台湾府志』によれば乾隆年間中期には馬龍潭と水崛頭の間に集落が形成されていたとの記録がある。これらの記録により道光年間,西大墩、水崛頭、馬龍潭、港尾、上石牌、下石牌などの地域が開発されたことを窺い知ることができる。道光年間には彰化より烏日、南屯、西屯を経て大雅に至る南北交通網、現在の光明路が形成され、光緒年間には東大墩北門より西大墩、大肚を経て沙鹿に至る現在の西屯路が整備され、台湾中部の商業の中心地として西屯が栄えていた。
清代には台湾県梀東下堡とされていた西屯であるが、1895年に日本による統治が開始されると台中県西大墩区梀東下堡と改編された。1920年10月1日には西屯庄が設置され、台中州大屯郡の管轄となった。光復後の1946年、台中県大屯区西屯郷と改編され、続いて1947年2月1日に台中市の拡大とともに台中市に属す西屯区と改称し現在に至っている。
[編集] 行政区域
西安里 至善里 西平里 西墩里 潮洋里 龍潭里 恵来里 上石里 上安里 上徳里 逢甲里 逢福里 鵬程里 何厝里 何明里 何南里 何成里 何安里 何仁里 何徳里 何福里 何源里 大河里 大石里 大福里 大鵬里 港尾里 広福里 林厝里 永安里 福安里 福雅里 福林里 福瑞里 福聯里 福和里 福中里 福恩里 協和里
[編集] 教育
区分 | 数 | 名称 |
---|---|---|
大学 | 3 | 東海大学 逢甲大学 僑光技術学院 |
高職 | - | - |
高中 | 2 | 国立文華高級中学 東海大学附属高級中学 |
国中 | 5 | 台中市立安和国民中学 台中市立至善国民中学 台中市立西苑国民中学 台中市立漢口国民中学 台中市立大業国民中学< |
国小 | 11 | 台中市立永安国民小学 台中市立西屯国民小学 台中市立泰安国民小学 台中市立大鵬国民小学 台中市立協和国民小学 台中市立大仁国民小学 台中市立重慶国民小学 台中市立何厝国民小学 台中市立国安国民小学 台中市立上石国民小学 台中市立上安国民小学 |
特殊 | 1 | 台中市啓聡学校 |