貝原俊民
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貝原 俊民(かいはら としたみ、1933年8月24日 - )は日本の元官僚、元政治家(第5代兵庫県知事(在任期間:1986年11月24日~2001年7月31日、4期))。
佐賀県武雄市に生まれる。 東京大学法学部卒業後に旧自治省へ入省。1970年、兵庫県に総務部地方課長として出向して農林部長、総務部長などを歴任、1980年から副知事を務める。1986年には知事となり4期15年を務めたが、任期を1年残した2001年に、妻の介護の為として辞任した。
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[編集] 震災当時の県知事
「中央集権制限法」を提案するなど地方分権に関する論客として知られた貝原だが、その名を(あまり良い意味ではなく)全国に知られる事になったのは、在任中に阪神・淡路大震災に遭遇した事による。貝原は神戸市中央区の知事公舎で被災したが、自衛隊への災害派遣要請が遅れた(実際は約4時間後に防災担当の参事によって要請が出され、貝原へは事後承諾の形をとった)事から非難を受ける事となった。
1995年1月17日午前5時46分に淡路島北部、明石海峡付近を震源とする直下型地震が発生。午前5時56分、伊丹市長・松下勉が伊丹市役所に登庁。午前6時、小久保正雄・北淡町長が村役場に登庁。午前6時35分、笹山幸俊神戸市長が神戸市役所へ登庁。午前6時50分、芦尾長司兵庫県副知事が県庁へ登庁。午前7時、北村春江・芦屋市長が市役所へ登庁する等、県内の各市町村長が各市町村役場へ続々と登庁する中、貝原知事は午前8時20分、2時間30分遅れで県庁へ登庁。貝原知事登庁の10分前・午前8時10分に陸自第3師団所属第3特科連隊から兵庫県消防交通安全課課長補佐・野口一行の元へ災害派遣出動の確認の電話が入る。午前9時、小久保・北淡町長が県民局を通じて自衛隊の出動を要請、又、同時刻に松下勉・伊丹市長が陸自中部方面総監部に救援を要請。午前9時5分、国土庁防災局が兵庫県総務部に自衛隊派遣の要請を行うよう通達。午前9時30分、神戸市が県に自衛隊出動を要請。兵庫県から自衛隊への災害派遣要請を待たずに直接自衛隊へ派遣要請を行う市町村が続出する中、 午前10時、兵庫県消防交通安全課課長補佐・野口一行が陸自第3特科連隊からの「この連絡を以って派遣要請が有ったと認識して良いか」と言う電話を受け「宜しくお願いします」と回答。これが兵庫県から陸上自衛隊への正式な災害派遣出動要請となる。つまり貝原県知事は最後まで自衛隊による災害派遣要請の決断を行わず、野口課長補佐の回答を追認する形となった。
尚、野口課長補佐はこの後、兵庫県庁より淡路島洲本市にある淡路県民局企画調整部に転出している。
[編集] その他の役職など
- 神戸日独協会 理事長
- 神戸日仏協会 会長
- 国際エメックスセンタ- 理事長
- 阪神・淡路大震災記念協会 理事長
- 兵庫地域政策研究機構 理事長
- 行吉学園 理事長
- 政府税制調査会 委員
- 政府地方制度調査会 委員
- 日本ボーイスカウト兵庫連盟 名誉連盟長
以上は、既に退任したものも含まれる。現在は財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長。
[編集] 著書
- 大地からの警告 大震災は何を語りかけたのか (2005年)
[編集] 外部リンク
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第5代 1986年 ‐ 2001年 |
第6代 井戸敏三 |
※代の表記は公選後のもの
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