赤松貞村
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赤松 貞村(あかまつ さだむら、生没年不詳)は、室町時代の播磨・美作・備前の守護職である赤松氏の一族である。父は赤松持貞の兄弟赤松満則。
応永34年(1427年)に赤松満祐が出奔する事件がおこり、その政治的解決のために当時の赤松春日部家の当主である赤松持貞は自害に追い込まれた。そのあとを継いだのが持貞の甥にあたる赤松貞村だった。 叔父と同様に将軍の近習となった貞村は、妹が六代将軍足利義教の側室となり、また男子を出産したことで存在価値を高めていった。 その効果なのだろう、応永34年と同じような噂「播磨の守護を満祐から貞村に変更する」というのが囁かれた。 この噂話が嘉吉の乱の発端になった一因になった。
将軍・足利義教が赤松邸のある西洞院で殺害された嘉吉元年(1441年)6月24日、貞村も幕臣たちとともに参加していたのだが、赤松教康が足利義教を襲撃すると、その場から逃げ出した。 また、赤松満祐を討伐する時には、細川持氏が指揮する幕府大手軍に加わったのだが、目ぼしい活躍はなかった。
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