嘉吉の乱
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嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の1441年(嘉吉元年)に播磨国(兵庫県)守護の赤松満祐が、室町幕府6代将軍の足利義教を暗殺し、領国播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。義教が暗殺された事件は嘉吉の変(かきつのへん)で、赤松氏が討伐されるまでが嘉吉の乱と呼ばれる。
嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)、京都の西洞院二条にある赤松氏の邸へ将軍義教や管領の細川持之や諸守護、三条実雅など公家らが招かれ、満祐の子の教康が主催で結城合戦の祝勝会と称した宴が開かれる。満祐は宴の最中に義教を襲わせて殺害、持之や山名持豊(宗全)らの一部の諸大名や将軍近臣は逃亡するが、山名熈貴や京極高数など殺害されたり負傷したものもいる。満祐らは領国播磨へ逃れ、足利直冬の孫で播磨に潜伏していたと伝えられる足利義尊を将軍として擁立し幕府に対抗する。
幕府では細川持之が政務を代行して諸大名の評定会議を開き義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍に決定し、7月には後花園天皇の綸旨を受け細川持常・武田信賢・赤松満政・赤松貞村・別働隊として山名持豊・山名教清・山名政豊など赤松追討軍を派遣する。細川氏を中心とする兵は正面から攻め、山名氏は背後の搦手から攻める。満祐は坂本城から木山城へ移るが敗北し、城山城(現在の兵庫県たつの市)で自殺する。満祐の弟の義雅や則茂らは脱出するが、数年後に討たれる。教康は義父の北畠顕雅を頼るが無視されて自害し、満祐が擁立した義尊も討たれている。
赤松氏は赤松則村(円心)が足利尊氏の幕府設立に協力して以来、幕府の四職の1つとなっていた家柄であるが、この事件によって一時的に衰亡する。1443年(嘉吉3)の禁闕の変において後南朝勢力に三種の神器の一部が奪われたが、赤松氏の遺臣が神器を奪還した事などで足利義政時代には再興を果たしている。
一方、山陰地方に領地を持ち満祐の領地と接していた山名持豊は満祐を討ち果たしたことによって播磨国の守護職を与えられ、足利義満時代の明徳の乱以来没落していた山名氏は勢力を回復した。折りしも、持豊配下の兵士が赤松氏討伐直前に長期の京都滞在に伴う困窮から「陣立」と称して洛中の土倉・質屋を襲撃して財物を強奪するという事件が発生した。だが、事件の責任を追及する管領・細川持之に対して、持豊は討伐の戦功を盾に配下の罪を不問にさせるなど幕府に対して大きな発言力を持つようになった。
義教暗殺は当時は諸大名の関与が疑われていたが、赤松満祐、赤松教康父子の単独犯行と考えられている。足利義教は守護家に介入するなどの強硬政治を行っており、有力守護に対して圧力を強めていた義教が満祐の同族の赤松貞村を寵愛し、前年3月には摂津国の領土を貞村に与え、これに抗議した満祐が出仕拒否をしている。義教が満祐を討伐しようとする風聞が流れたことから満祐が身の危険を感じたとも推測されている。
伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』には、義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。