赤穴光清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤穴 光清(あかな みつきよ、明応2年(1493年) - 天文11年7月27日(1542年9月6日))は出雲の国人で尼子氏家臣。父は赤穴久清。子は詮清・定清・盛清。
1515年赤穴光清は父の久清の隠居にともない家督を継いだ。1542年2月から始まる大内義隆の出雲遠征では、光清は居城の瀬戸山城に富田城から田中三郎左衛門ら1,000騎の援軍を迎え入れ、光清は赤名川を堰き止めて赤名盆地を湖水とし、防衛網を強化して、大内軍の来攻に備えた。かくして、瀬戸山城攻防戦は始まった。
毛利元就配下の武将・熊谷直続を討ち取り、大内の大軍を撃退するなど、その活躍は目覚しかったが、戦闘の指揮中に大内方・陶隆房配下の弓に喉を射抜かれ討死した。光清の討死により、瀬戸山城は降伏。子の詮清・定清は、大内氏に従い、1543年に赤穴詮清は筑前国で討死し、弟の定清は大内側にある自分と、尼子側にある実家との関係に悩み自害したため、三男の盛清が跡を継ぎ、存命中の祖父の赤穴久清がその後見に当たった。