赤羽末吉
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赤羽 末吉(あかばね すえきち 1910年5月3日-1990年6月8日 )は、日本の舞台美術作家。絵本画家。東京生まれ。
[編集] 人物
順天中学を卒業。21歳で満州国(現在の中国東北部)に移住し、当初は通信関係や運輸関係の仕事に従事したとされる。ほとんど独学で絵画を学び満州国美術展に油絵を出品した折に入選。後に美術関係の仕事に就いているが旅を好み蒙橿、つまり現在のモンゴルと国境を接する地区にも数度、足を運んでいる。
太平洋戦争終結後に日本へ帰り36歳の赤羽は米国大使館に就職。以降18年勤務している。並行して舞台美術の世界でも才能を発揮しており、木下順二や松山善三とは生涯変わらぬ交流を持つ。周囲の評価からは理知的で端正な人間像が浮かびあがりこの点は生涯変わる事はなかった。50歳になった赤羽は「かさじぞう」で絵本画家としてデビュー。これ以降発表した多くの作品は今日まで国内のみならず海外からも高い評価を得ているのは周知の如くである。代表作に「スーホの白い馬」など。
没後、故人の意思に基づきその下書きのデッサンから原画を含む六千数百点全てが遺族の手より「ちひろ美術館」へ寄贈されている。「国際アンデルセン賞」を受賞(1980年)と言わずとも、当時より赤羽は大物中の大物である。これほどの点数を自分と直接、運営について関係を持たない個人美術館に寄贈したのは、当時でも奇異の目を持って見られている。一説によると、背景には激動の昭和を生きた赤羽は木下と共に共産党シンパでありながら、アメリカ大使館へ奉職せざるを得ない自分への葛藤があり、これこそが巨匠に決断をもたらした最大のものであるとされるが、あくまで推測の域をでない。深い謎を湛えた巨人である。