身毒丸
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『身毒丸』(しんとくまる)は、寺山修司作の舞台作品(岸田理生との共同台本)。中世の説話『しんとく丸』と『あいごの若』をモチーフにしている。演劇実験室「天井桟敷」公演として1978年に紀伊國屋ホールで初演(寺山とJ.A.シーザーの共同演出)。
1995年には岸田が台本を改訂し、蜷川幸雄演出、当時アイドルとして人気を集めていた武田真治主演で上演、読売演劇大賞を受賞。1997年にはオーディションで蜷川に見出された藤原竜也(当時15歳)が新たに身毒丸を演じ、ロンドンのバービカン劇場での海外公演で大絶賛を浴びる。演技経験のなかった藤原はこの初舞台で迫力ある演技を見せ、天才新人と話題を呼んだ。
母を売る店で買い求められた女・撫子と、その義理の息子・身毒丸。2人の宿命的な禁断の愛を描いた感動の問題作。
- 1978年 - 演劇実験室「天井桟敷」で初演、若松武、新高恵子主演
- 1995年 - 蜷川幸雄演出、武田真治、白石加代子主演で上演
- 1997年 - 蜷川幸雄演出、藤原竜也、白石加代子主演で再演(ロンドン公演、翌年には日本各地で凱旋公演)
- 2002年 - 『身毒丸 ファイナル』と題し、日本各地で上演。藤原竜也、白石加代子主演による最後の公演となる。
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[編集] 蜷川演出版
[編集] スタッフ
- 作:寺山修司/岸田理生
- 演出:蜷川幸雄
- 作曲:宮川彬良
- 美術:小竹信節
- 照明:吉井澄雄
- 衣裳:小峰リリー
- 振付:前田清実 花柳錦之輔
- ヘア&メイク:高橋巧亘
- 音響:井上正弘
- 舞台監督:明石伸一
- 技術監督:眞野純
- 企画制作:財団法人埼玉県芸術文化振興財団/ホリプロ/メジャーリーグ
[編集] キャスト(2002年版)
他
[編集] 受賞
- 読売演劇大賞・作品賞、最優秀演出家賞(蜷川幸雄)、主演女優賞(白石加代子)、スタッフ賞(宮川彬良)
[編集] トリビア
- 『王女メディア』の公演の下見にパレスチナに行った蜷川は、そこで暮らす人々や風景に衝撃を受けたため、事前に打ち合わせていた『身毒丸』の演出プランをすべて白紙に戻してしまった。しかし、稽古場でプランを紡ぎ出していく演出方法がうまく機能し、圧倒的なヴィジュアルイメージを現出させることに成功。以降、蜷川はこの「即興演出」の手法で作品を生み出している。
- 『身毒丸』の稽古、上演のために蜷川は初めて彩の国さいたま芸術劇場を利用、これが縁で後に、彩の国シェイクスピア・シリーズの芸術監督、そして(財)埼玉県芸術文化振興財団の芸術監督に就任することになる。
- 芝居のラストは、オープニングと同様に現れる街の人々の中に身毒丸と撫子が見えなくなっていくという演出だが、Bunkamuraシアターコクーンでの上演のみ、舞台奥の搬入口が開放され、そこから二人が渋谷の街へと消えていくという演出になっている(街の人々は出てこない)。
- 1997年の再演にあたり、岸田は初演になかった台詞を付け足している。家族合わせの途中で抜け出した身毒丸と、母札がないことを知った撫子がそれぞれ想いを語る場面がそれ。また、行水をする身毒丸を撫子が発見する場面は、初演では武田が裸になるのを拒否したため、シャツを脱いで洗濯する場面になったが、再演では元通りにされた。
- 1997年ロンドン公演当時英国留学中だった演出家の鴻上尚史は、蜷川に会うためバービカン劇場での仕込みに顔を出したものの、現地スタッフとの意思疎通の問題などで遅々として進まない舞台稽古を見学しているうちに痺れを切らし、自ら機材を運ぶなど手伝いをした。
- ロンドン公演では字幕は用いず、開演前に俳優アラン・リックマンのナレーションによるあらすじを流した。リックマンは、1991年に蜷川演出の『Tango at the End of Winter』(タンゴ・冬の終わりに)に主演している。
- ロンドン公演の千秋楽前日に、以前から患っていた藤原の腰痛が悪化したため、千秋楽昼公演は代役を立てて上演された。夜公演も代役でいくはずだったが、それを知った藤原の懇願に蜷川が折れ、もしもの時のために舞台袖に代役の俳優を待機させて、藤原が出演することになった。動くことすら難しいはずの藤原は舞台に立つや激しい動きもこなし、それまでの出来を上回る鬼気迫った演技を見せた。
- かつて天井桟敷のメンバーだった蘭妖子と日野利彦は、寺山演出の『身毒丸』にも出演している。
- 通常の舞台の音響はMD再生によるものだが、『身毒丸』ではこだわりで8トラックを使用している。
- 「地獄のオシガラミ」の場面ではバックに流れる音楽が大きいため、撫子と身毒丸の台詞の一部は録音である。1997年上演時の録音が2002年の上演でも利用されたため、髪切虫を呼び寄せる藤原の台詞は声が若く聞こえる。