軍団 (古代日本)
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軍団 (ぐんだん) は、日本古代の律令制で全国に設けられた部隊で、一軍団千人を標準とする。個々の軍団は、所在地の名前に「軍団」をつけて玉造軍団などと呼ばれたり、「団」を付けて「玉造団」などと呼ばれた。
[編集] 徴兵
養老律令の軍防令は、正丁(せいてい、21~60歳の健康な男)三人につき一人を兵士として徴発するとした。この規定では国の正丁人口の三分の一が軍団に勤務することになるが、実際の徴兵はこれより少なかったようで、一戸から一人が実情ではないかとも考えられている。兵士の食糧と武器は自弁で、平時には交替で軍団に上番し、訓練や警備にあたった。
[編集] 規模と指揮系統
平時の軍団は国司の下に置かれた。標準的な軍団は千人であったが、小さな国ではこれより少なかった。その場合、八百人、六百人、あるいは四百人など二百人区切りで適当な大きさの軍団が編成されたらしい。陸奥国では、一軍団の数が千人を越えたと思われる時期がある。
二百人、四百人の軍団は、少毅一名が率いた。六百人、八百人の軍団は、大毅一名が率いた。千人以上の軍団は、大毅一名と少毅二名が率いた。
軍団の中には、校尉がおかれ、二百人を率いた。校尉は二百長とも呼ばれた。旅師が百人を率いた。隊正が五十人からなる隊を率いた。隊正は隊長とも呼ばれた。火長は十人からなる火を率いた。火は兵士の生活・公道上の単位で、補給の最小単位で、おそらく一つの火で十人分の食事を作ったことに由来する。伍長が五人からなる伍を率いたとする説があるが、明確な規定がなく、発掘資料にも見えないことから、存在を疑う者もいる。
- 大毅(だいき) - 少毅(しょうき) - 校尉(こうい) - 旅師 - 隊正 - 火長 - (伍長)
[編集] 配置
軍団は、一つの国に最低一つ、大きな国には複数置かれた。軍団の指揮系統は郡以下の地方組織に対応しており、指揮官の大毅と少毅は郡司層から選ばれた。軍団は数個郡に一つの割合で存在し、郡家の近くに駐屯して、訓練に従事した。