辰斯王
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辰斯王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 진사왕 |
漢字: | 辰斯王 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
しんしおう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
チンサワン |
ラテン文字転写: | Jinsa-wang |
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辰斯王(しんしおう、生年不詳 - 392年)は百済の第16代の王(在位:385年 - 392年)。第14代の近仇首王の次男であり、先代の枕流王の弟に当たる。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。『三国史記』によれば、385年11月に先代の枕流王が死去したときに太子(後の阿莘王)が幼かったために、辰斯王が王位についたとある。『日本書紀』には『百済記』の引用として「枕流王の薨去の際に王子の阿花(阿莘王)が年少であったので、叔父の辰斯が王位を簒奪した」[1]とある。
『晋書』巻九・孝武帝本紀太元11年(386年)夏4月条には「百済王世子余暉」(余は百済王の姓)として百済王の諱と思われる人名が現れる。この余暉を「世子」の表現から阿莘王に相当すると見る説もあるが、年次の面から辰斯王に比定する説が多い。『三国史記』においては諱を「暉」とする百済王の記述は見られない。
目次 |
[編集] 治世
386年春には、15歳以上の国民を用いて関防(防衛用の長城)を築かせて北辺の高句麗に備えるとともに、同年夏4月には東晋から<使持節・都督・鎮東将軍・百済王>に封じられ、百済の伝統である「東晋~百済の連携で高句麗に対抗しようとする態勢」は整えられた。しかし、390年9月までは高句麗への侵略は成功しているものの、391年以降は高句麗・靺鞨の進入を受けて敗戦を続けた。特に392年に高句麗の広開土王が4万の兵を率いて侵略してくると、漢水(漢江)以北の諸城はほとんど高句麗に奪われることとなった。
[編集] 死
高句麗に漢水以北を奪われた後、在位8年にして11月に死去した。しかし、その死には不審な点が見られる。『三国史記』百済本紀・辰斯王紀には、田猟に出たまま行方不明となって、翌月には薨去した(薨去したこととした?)[2]と記し、『日本書紀』では百済の国臣が辰斯王を殺した[3]と伝えている。また広開土王碑文には、辰斯王が死去した年の出来事として「百済、新羅はもともと高句麗の属民で、ずっと朝貢していた。しかるに、倭が辛卯の年(391年)以来海を渡ってやって来て、百済を破り、新羅を■■して臣民にしてしまった」[4](※碑文と三国史記の年紀には一年のズレがあることに留意)とあるのも併せて考えると、辰斯王の死には倭が何らかの圧力を加え関与した可能性が高いと考えられる。
[編集] 脚注
- ^ 『日本書紀』巻九・神宮皇后六十五年(265年→385年)条
- ^ 『三国史記』百済本紀・辰斯王八年条:冬十月。高句麗攻抜關彌城。王田於狗原。經旬不返。十一月。薨於狗原行宮。
- ^ 『日本書紀』巻十・応神天皇三年(272年→392年)是歳条:百済辰斯王失礼於貴国天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰。嘖譲其无礼状。由是百済国殺辰斯王。以謝之。紀角宿禰等便立阿花為王而帰。
- ^ 『広開土王碑文』百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡(海)破百残■■新羅以為臣民
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
- 『日本書紀』伴信友校訂 岸田吟香他 1883(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
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