造海城
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造海城遠景 | |
通称 |
百首城 |
城郭構造 |
連郭式山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
真里谷信興 |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
空堀、石垣、土塁、井戸 |
位置 |
目次 |
[編集] 概要
造海城は、真里谷氏によって築かれた山城。里見氏の支配下に入った天文6年(1537年)以降、里見氏の対北条氏最前線として重要な役割を果たした。
[編集] 構造
浦賀水道に面した南北に伸びる独立性の高い丘陵上に占地し、西面を浦賀水道、北面を白虎川に守られた天然の要害である。
郭は尾根上に四郭を設け、西側に伸びる支尾根上及谷の上部に郭が重ねられている。東側の地形は西側に比べて起伏に乏しいが、三柱神社脇の尾根筋及び外部へと繋がる尾根筋に普請が認められる。後者は灯篭坂大師から伸びる大手道を、後者は延命寺・三柱神社にあったと考えられている居館をそれぞれ守る目的で設けられたものと考えられる。この他に、大手尾根の付け根付近に木出根と呼ばれる場所があり、腰郭が設けられている。
[編集] 遺構
山上の遺構はほぼ完全に残っており、空堀や石垣、土塁、及び井戸が残る。ただし、後に台場が設けられたため、幕末期の遺構も混在する。
[編集] 沿革
- 寛正2年(1461年)、真里谷信興により築城された。
- 天文3年(1534年)、真里谷信隆と信応の間に家督争いが起こると、信隆の子信政が拠った。
- 天文6年(1537年)、信応に付いた里見義堯に攻められ開城し、里見氏方の正木氏が入った。
- 天正18年(1590年)、小田原の役の後、里見氏が安房一国に減封され廃城となった。
- 江戸時代末期、城内の北端及び南西端二箇所に台場が設けられた。