遵西
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遵西(じゅんさい、生年不詳 - 建永2年2月9日(1207年3月9日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての浄土宗の僧。父は中原師秀。房名は安楽房(この房名から安楽とも称される)。俗名は中原師広。
当初大蔵卿高階泰経に仕えたが、後出家して法然に師事した。1192年(建久3年)法然が大和国八道見仏の発願により八坂引導寺で別時念仏を修する際、遵西は住蓮とともに六時礼讃を勤行している。1198年(建久9年)法然が選択本願念仏集を撰述する際には、その執筆を命じられている。音楽的才能に恵まれ、同門の住蓮とともに六時礼讃に曲節をつけて念仏の信者に合唱させ、専修念仏の普及に大きな役割を果たした。後鳥羽上皇の女房と密通をはたらいたという疑いをかけられ、住蓮ら3人の僧と共に六条河原で斬首に処せられ、1207年に法然が四国に配流となった承元の法難の直接のきっかけとなった。 刎首に先立って羅切された話は有名。