鄭孝胥
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鄭孝胥 | |
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プロフィール | |
出生 | 1860年 |
死去 | 1938年 |
出身地 | 中国 福建省 福州 |
職業 | 政治家 |
各種表記 | |
簡体字 | 郑孝胥 |
繁体字 | 鄭孝胥 |
ピン音 | Zhèng Xiàoxū |
注音符号 | ㄓㄥˋ ㄒ︱ㄠˋㄒㄩ |
和名表記 | てい こうしょ |
発音転記 | ヂョン・シアオ・シュー |
ラテン字 | Zheng Xiaoxu |
鄭孝胥(てい こうしょ)は、清末の官僚・満州国の政治家・書家。字は太夷、号は蘇戡・蘇盦等。満州国の初代国務院総理(首相)。
鄭孝胥のそれまでの人生を大きく変える契機は、晩年である1924年に溥儀について総理内務府大臣に就任した時と言える。既に溥儀自身は1912年に退位宣言をしており、清朝は滅亡していたわけだが、紫禁城だけは残されていた。この時期の「総理内務府大臣」であるから、政治上は何らの実権も持たない「愛新覚羅家の家令兼溥儀の教育係」程度のものである。
しかし、鄭孝胥は溥儀の忠臣として尽くし、溥儀の紫禁城退去の際にも付き従い、日本軍の庇護下に入りつつも溥儀復権のために尽力している。一説にはこの時期、鄭孝胥の仕官を勧める口はいくらもあったが、頑なに拒んだという。
満州国建国に際しても溥儀と一緒に満州入りし、初代の国務院総理として溥儀を支えたが、「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから辞任に追い込まれた。
[編集] プロフィール
[編集] 略歴
- 清朝において、大阪総領事・総理衙門章京・京漢鉄道南段総弁・広東按察使・湖南布政使等を歴任。
- 上海商務印書館(官営の出版機構)の支配人
- 上海儲蓄銀行重役
- 1924年 総理内務府大臣に就任
- 1924年11月 紫禁城を退去。溥儀に従って日本軍の庇護下に入る
- 1932年3月9日 満州国建国に伴い、初代国務院総理(総理大臣に相当)に就任
- 1932年7月6日 文教部総長(文部大臣に相当)を兼務
- 1934年3月1日 満州国の帝政移行に伴い、国務総理大臣(総理大臣に相当)に就任。文教部大臣(文部大臣に相当)を兼務
- 1935年5月21日 国務総理大臣・文教部大臣を辞任
- 1938年3月逝去
- 1938年4月 満州国国葬
[編集] その他のエピソード
- 能筆家であり、詩にも優れていた。
- 満州航空社長の鄭垂は長男
- 鄭孝胥の次男鄭禹の子鄭広淵は溥儀の二番目の妹韞龢と結婚。
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