鎌倉七口
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口で、現在一般に言われるのは以下の7つである。
鎌倉七口の初見は江戸時代初期の1642-1644年頃に書かれたと思われる「玉舟和尚鎌倉記」。 その後1659年の「金兼藁」、1674年の「徳川光圀鎌倉日記」。 その水戸光圀が命じて編纂させた1685年の「新編鎌倉志」。 だいぶ時代は下がった江戸時代末は1829年の「鎌倉攬勝考」(らんしょうこう)。 そして1841年の「新編相模風土記稿」に同じような記述がある。 鎌倉時代には「七口」の呼び名は無く京都の「七口」をもじったもので「鎌倉十橋」「鎌倉十井」などと並ぶ、所謂「名数」である。
「玉舟和尚鎌倉記」では「大仏坂」「ケワイ坂」「亀ヶ井坂」「小袋坂」「極楽寺坂」「峠坂」「名越坂」とあり、 「徳川光圀鎌倉日記」になってケワイ坂を「化粧坂」、亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」、峠坂を「朝比奈切通」、大仏坂を「大仏切通」、極楽寺坂が「極楽寺切通」、名越坂が「名越切通」と出てくる。
鎌倉時代の公文書とも言える「吾妻鏡」にその名が見られるのは「ケワイ坂(気和飛坂)」「六浦道(朝比奈切通)」「名越坂」、そして「山内道路」として出てくるのが亀ヶ谷坂か巨福呂坂か、あるいは両方。あとは七口には数えられない「小坪坂」(壺とも)と「稲村路」である。
「大仏坂」は鎌倉時代には全く記録が無く、極楽寺坂は極楽寺の寺伝に開山の忍性が開いたとあり、ほぼ信用してよいと思われている。
現状の鎌倉七口は、巨福呂坂が新道となり痕跡だけ残して消滅。極楽寺坂切通しも普通の車道となり、明治時代以前の趣を残しているのは大仏切通、朝夷奈切通、名越切通の3か所と多少趣を残しているのが化粧坂と亀ヶ谷坂切通である。