長尾為景
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長尾 為景(ながお ためかげ、文明3年(1471年) - 天文5年12月24日(1537年2月4日)(没年は異説あり))は、越後の戦国大名。長尾能景と高梨政盛娘の子。長尾晴景・上杉謙信・長尾政景妻(仙桃院)の父。姉妹に上杉定実妻・高梨政頼妻。信濃守。従五位下。
- 最近の研究の成果では、没年を1543年1月29日(天文11年12月24日)とする説が有力である。また、死因においても病死説のほかに、一向一揆との戦いで敗れて戦死したという説もあったが、これは為景の父能景と混同したものであり、現在では否定されている。
[編集] 経歴
1506年9月、越中で父が戦死したため長尾氏の家督を継いで越後守護代となった。翌1507年8月、父の代から対立していた守護・上杉房能を攻めて自殺させるとその養子・上杉定実を傀儡として守護に擁立した。しかし1509年、自殺した房能の兄・関東管領上杉顕定が為景に対して報復の大軍を起こすと、為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。捲土重来を期し、翌1510年には外祖父の政盛らの援助を受け反攻に転じ、長森原の戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ顕定を敗死させて奪われた越後の実権を取り戻すことに成功した。 下克上の代表格の一人であるが、朝廷や室町幕府といった権威を尊重し、しばしば即位費用等において献金を行った。これにより、叙爵し信濃守となった他、幕府より守護の格式である白傘袋毛氈鞍覆を免許され、塗輿も免許される。
その後は越中や加賀に転戦して、神保慶宗を滅ぼし越中の分郡守護代を任されるなど勢力拡大したが、晩年は定実の弟・上条定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられ1536年、隠居に追い込まれた。ただし、この年には朝廷より内乱平定の綸旨を受け、更に三分一原の戦いで勝利するなど優勢下での隠居のため、内乱鎮圧に専念するための隠居であった可能性もある。間もなく病のために死去。
為景は、まさに戦国時代の火蓋を切る『奸雄』のひとりといえるであろう。越後を我が物にするためであれば、主家打倒も奸計も辞さず、戦うこと百戦に及ぶと言われている。のちに上杉顕定の子・憲房などは「長尾為景は二代の主君を殺害した天下に例の無い奸雄である」と評しているほどである。