長峯かおり
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長峯かおり(ながみね・かおり、1968年6月3日 - )は女子サッカー選手・指導者。ポジションはフォワード。東京都小平市出身。小学4年(1978年)でサッカーを始め、1981年に中学校進学するころFC小平(後の新光精工FCクレール)に入団する。この年は3月に東京都女子サッカー連盟が発足し、4月には第1回東京都女子サッカー大会が開催、5月からは第1回東京都女子サッカーリーグが始まるというタイミングであったが、そのときのプレーぶりは強引なドリブルと豪快なシュートで、まさに子ども(少女)というより少年そのものだったといわれる。
1983年に中学3年生(15歳)で日本女子代表入りし、翌1994年10月22日のオーストラリア女子代表戦(中国・西安)で初出場。第11回アジア競技大会(1990年)、第1回FIFA女子世界選手権大会(1991年)に出場した。
ちなみに第1回世界選手権のアジア予選を兼ねて行われた「第8回アジア女子選手権」(1991年)では、5月26日に福岡県の平和台陸上競技場で行われた北朝鮮戦で得点をあげ1-0と勝利したが、この対戦カードでつぎに日本が勝利するのは2004年のことであった。
1991年に日本大学文理学部を卒業し、所属チームのない状態が8ヵ月も続いたが、母校の男子サッカー部の練習に参加しながら、代表でのプレーを続行。その年の11月に世界選手権を戦ったあと、91年12月からイタリアの女子サッカー1部リーグ(セリエA)のレッジアーナ・ザンベッリ(ACF REGGIANA ZANBELLI) でプレーした。
移籍したレッジアーナはイタリア代表が11人もいる強豪チームでしかもシーズン途中の移籍だったが最初からフル出場した。16チームでの2回戦総当たりのリーグ戦は激しく厳しいものだったが、やれる手応えを感じていた。しかし2、3ヶ月たつと徐々に調子が落ち、途中出場が多くなった。所属2シーズン目にはセリエAを全勝でリーグ優勝し、イタリアカップ(コッパイタリア)も制したが、結果に満足したオーナーが今度は男子に力を入れるため女子チームは93年に解散。これにより選手たちはほかのチームに移籍し長峯にもオファーはあったが、日本の若い選手たちに自分の経験を伝えたいと思い帰国した。
1993年6月に鈴与清水FCラブリーレディースでプレーするかたわら、準指導員コースの講習にも通った。そして第12回アジア大会(1994年)第2回FIFA女子世界選手権大会(1995年)に出場。最後の召集となった1996年までに 日本代表として64試合に出場。代表48得点は2004年に澤穂希に抜かされるまで永らく日本女子の歴代トップの成績であった。
2000年に鈴与清水FCラブリーレディースが廃部となり引退。そのころ公認C級指導者ライセンス(2004年の資格改正により公認B級コーチ)を取得し、2001年からJリーグの川崎フロンターレの下部組織でサッカースクールのコーチとして小学生の児童や中学生以上の女子の指導にあたり、また2004年には中学生を中心とした女子チーム「CCCフューチャーズ」を結成し監督を務めている。
[編集] 主な成績
[編集] L・リーグ
- 109試合92得点
年 | クラブ | リーグ | 背番号 | ポジション | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 新光精工クレール | JLSL | 16 | FW | 10 | 2 |
1990 | 18 | 1 | ||||
1991 | (イタリア・レッジアーナ・ザンベッリに在籍) | |||||
1992 | ||||||
1993 | 鈴与清水ラブリーレディース | JLSL | 24 | FW | ? | ? |
1994 | L・リーグ | 12 | 19 | 6 | ||
1995 | 7 | 7 | 2 | |||
1996 | 17 | 4 | ||||
1997 | MF | 18 | 1 | |||
1998 | 6 | 17 | 0 |
[編集] 日本女子代表
- 64試合48得点
- アジア競技大会
- アジア女子選手権
- FIFA女子世界選手権大会(1991年、1995年)