長谷川好道
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長谷川 好道(はせがわ よしみち、嘉永3年8月26日(1850年10月1日) - 大正13年(1924年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。韓国駐剳軍司令官、参謀総長、朝鮮総督を歴任し、陸軍軍人最高位の元帥陸軍大将となる。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。
[編集] 経歴
父は長州藩支藩岩国藩士で剣術家の長谷川藤次郎のもとに生まれ、藩の剣術師範である父の教えの元剣術を修めた。戊辰戦争には長州藩精義隊小隊長として参戦し、明治に入ると大阪兵学寮学生となり明治4年8月陸軍少尉心得、同年12月に陸軍大尉・5番大隊長に任ぜられる。明治5年4月陸軍少佐に進み、翌年5月歩兵第1連隊長、同6月中佐となり西南戦争に従軍する。戦後広島鎮台歩兵第11連隊長、同鎮台参謀、大阪鎮台参謀長、中部監軍部参謀を経験し階級は陸軍大佐に進む。明治18年フランス差遣を命ぜられ、翌年の明治19年12月陸軍少将・歩兵第12旅団長。この歩兵第12旅団長の時に日清戦争に出征、旅順攻撃で戦功を立てる。明治28年功により男爵を授爵し華族に列せられる。明治29年6月陸軍中将に進み第3師団長を補され、明治31年近衛師団長に移る。近衛師団長の時日露戦争となり鴨緑江会戦・遼陽会戦などで善戦し評価を高める。その功をもって明治37年6月陸軍大将に進級し同年9月朝鮮駐剳軍司令官に就任する。明治39年4月功一級金鵄勲章を受章し翌年9月には子爵に陞爵する。明治41年の軍事参議官を経て明治45年1月20日参謀総長に就任する。長谷川が参謀総長となった頃は、先の日韓併合から陸軍の保有師団を2個増設する案が浮上していた。既に陸軍には19個師団が在ったが、併合した朝鮮に新設の2師団を駐屯させようというものである。財政難から緊縮財政を取っていた西園寺内閣はこれを閣議で否決するがこれがために陸軍大臣の交替を招き内閣総辞職に到る。大正4年元帥府に列せられるが、この頃先の2個師団増設が認められ第19師団、第20師団が編成される。尤も、編成着手は大正7年で、完結は更に3年後の大正10年だった。この間伯爵に陞爵した長谷川は大正5年10月寺内正毅の後任として朝鮮総督に就任する。総督在任中の朝鮮で起こった三・一独立運動に対し軍を動員し鎮圧した事等、武断政治として批判を浴び、土地調査事業を完了させたものの僅か3年で斎藤実に交替する。大正13年1月28日薨去。墓所は東京都港区南青山・青山霊園。後を養嗣子の猪三郎が継ぐ。陸軍士官学校3期生の猪三郎は後に陸軍少将に昇る。
長谷川の生誕の地である山口県岩国市には岩国練武場がある。これは長谷川の生家跡であり、長谷川の意志を以って土地が岩国町に寄贈されたものである。同地には生誕の地を示す石碑が建ち、同練武場は山口県選定近代化遺産に指定される。また、岩国市紅葉谷公園にある六角亭は、長谷川が朝鮮から贈られたものをこの地へ移設した。
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